〇山岡鉄舟1836-1888

〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。

〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

〇旧漢字、仮名遣いを一部改めています。

 

●この時畏くも、陛下は御微傷を負わせられたので他の侍従等恐縮して寝殿へ入御を請い奉り、侍医をして応急の御手当てを奉進せしむる。

 

〇わずかな傷を負われた陛下は寝殿に戻り、侍医がよばれました。

 

●その間に居士は御次の間へ引き下がり粛然として控えておられた。ところが某侍従、居士に早速謝罪するがよい。と勧告する。居士首を振ってイヤ小臣に謝罪する筋はござらぬ。といわれる。

 

〇なぜ山岡は謝罪しなかったのか。

 

●某、しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくないであろう。という。居士ソハ以ての外のことなり。もし、小臣が倒れたならば、恐れ多くも、正しく陛下と相撲奉ったことになる。元来君臣が相撲うことはこの上も無き不倫なことである。

 

●されば小臣は如何にしてもこの場合、もし故意に倒れる者があったならば、ソハみだりに君意に迎合する邪な人といわねばならない。

 

〇山岡のいう君臣はこの場合天皇と臣をいう。山岡や高橋泥舟は旗本連の中では敬神家でしたから、相撲の起源臣が神に楽しんでいただくために奉納するものであると認識していたと思われます。それゆえ君臣の相撲を不倫と厳しく批判しています。

 

〇陛下と相撲を取ってわざと負けて歓心を買うことが普通だったのを山岡は苦々しく見ていたのですが、山岡はわざと負けることを選びません。これは明治五年に西郷の懇請で侍従になったことと関係しています。

 

〇西郷はまだ十代の陛下の周りに強情者を配し、陛下から軟弱な気風を除こうとしたためです。西郷自身が陸軍の野外演習に陛下を引率し習志野の原で風雨の中テント泊したことでも知られています。