〇山岡鉄舟1836-1888

〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。

〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

〇旧漢字、仮名遣いを一部改めています。

 

●世間では居士(鉄舟居士 以下同じ)明治天皇の相撲の御相手を奉仕して、畏くも陛下を投げ奉ったように言い伝えているが、そは全く誤謬で、今その事実を語ればこうである。

 

●陛下まだ御若年に渡らせらるる時、御晩餐に居士と某侍従たしか片岡侍従と覚ゆ、とが奉仕していた。スルト陛下盃をお手にし給いつつ、某侍従に向かわせられ、わが日本もこれからは法律で治めなければいかぬと宣いたが、某はただかしこみていると、陛下は汝はいかが思う、意見を述べよと宣う。ソコデ某恐れながら国家を治るの大本は、道徳にあるのではないかと存じ奉ると奉答する。

 

〇某は元田永孚かもしれません。この事件は明治15年以前のことと思われます。当時は天皇の政教一致の思想を実現させるために、元田は努力し天皇の徳を高めることを目指しました。王道を求めていました。

 

●陛下はイヤそれはもう昔の話だ。今の世には道徳など何もならぬと宣う。某又これに応じて抗弁し奉る。という次第で

自然に一場の議論となった。陛下は議論に御興を添えさられ頻りに御盃を進められ給いしが、フト居士を顧みられさせられ、山岡汝の意見はどうだ。朕に賛成か不賛成か。と宣うた。

 

〇当時はお雇い外国人もたくさん日本に入り、西洋の法律も学ばれてきています。陛下は西洋の法律が新しいものと感じられたのだと思いますが、侍従には受け入れられません。だんだんと陛下は不満を持たれ、酒も進みます。このようなときに山岡に不満がぶつけられます。