〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。

 

◎出席者

園池公致  侍従職出仕

坊城俊良  侍従職出仕

平松時賢  侍従職出仕

岡崎泰光  侍従職出仕

久世章業  侍従職出仕

山川三千子 女官

甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。

穂僕英子   女官

山口節子   女官

甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司                    在職中により、宮司と表記します。

 

●甘露寺 三十八段の階段を斜めに、よたよたと用心深く上がられるようになりました。

 

●防城 それは余程お悪くなっていたのですね。

 

●山川 東大の卒業式に行幸(原注 七月十日崩御の二十日前)された時には、主人の一期前の友達が卒業生としてお迎えしたのですが気がついたと申します。

 

〇崩御の二十日前でも公務をされていたというのですが、現在では考えられないことです。当時は糖尿病に対する治療法が不確定だったということが、このようなことにつながったと思います。

 

●坊定 陛下が御陵は桃山にするとおっしゃったというのはだいぶ前のことらしい。奥でそういうことを時々おっしゃられたことはあったでしょう。

 

●山川 「徳大寺がそのことをどうしても聞かないから、とうとう今日は承服させてきた。ということをお上はおっしゃっていました。

 

●坊城 東京に遷都なさったのだから御陵は東京のほうがよいという議論が出たようです。藤波さんあたりには京都ということは話されていたかもしれません。あの土地(原注 桃山)がお好きでした。

 

〇桃山御陵は明治天皇自らお選びになったということがわかりました。

 

●北小路 崩御の時には、前の関係でお通夜を勤めさせていただきました。その時、乃木大将は連日連夜お勤めになっていまして、侍従職にこられて一、二段上がった表御座所に裏の処で最敬礼をされて禁中へ伺われ、殯宮の前で更に最敬礼をされて椅子につかまれますが、それからまったく微動もされません。

普通二十分ぐらいで交代となりますが、乃木さんは一時間ばかりおられます。

 

〇この時の回想を明治の雑誌で読みましたが、殯宮では何人かの重臣で交代に通夜をしたのですが、どなたかが乃木さんに「ご退屈ではありませんか」と声をかけて乃木さんが厳しくたしなめたという記事を読みました。

 

 暑い時で蚊が盛んに来ますが、叩くわけにもいかないのでそっと誰もが手で追うぐらいですが、乃木さんは少し頭を下げて剣を片手につかれたなり、全く動くことがなく並々の御態度でないように伺っておりました。そして御大葬の日に殉死なさいました。

 

〇乃木さんは少年のころ吉田松陰の血縁者玉木文之進から学問を受けました。勉強中虫が顔近くに飛んできたので、乃木さんは手で払います。玉木文之進はそれを見て、厳しく𠮟り、「学問の時に他のことに気を取られるとは何事か」と戒めます。このことが後年乃木さんの行動の中に生き続けたと思っています。

 

〇乃木さんはこの時皇孫三殿下に拝謁し自分で読み込んだ「中朝事実」という中世の歴史書を献上します。この時昭和天皇は「乃木院長は別れに来たようだ」と一人語りされました。

 

●宮司 早いものでもう五十年になりました。(座談会から数えて)こうしてお話を伺っていると今更ながら明治陛下のお人なり御偉大さが、お懐かしく偲ばれます。

 

●権宮司 貴重なお話を、お伺いいたしまして、誠にありがとうございました。時間も遅くなりますので、一応この辺で… 

 

〇明治天皇の御大葬後、たくさんの雑誌単行本が出されています。その多くに近侍した方や重臣の談話が出ています。これらの多くは記者の聞き書きや創作によるものがほとんどで当たり障りのないことが多く書かれています。

 

〇明治天皇紀の編纂で日常のことも触れられていますが、戦前の皇国史観的なフィルターを通して見なければなりませんのでこれも気をつけねばなりません。

 

〇この回想座談会は戦後語られたものですから、以前のものよりは事実に近いものと思われます。

 

〇今回で終わります。長いことありがとうございました。