〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。

 

◎出席者

園池公致  侍従職出仕

坊城俊良  侍従職出仕

平松時賢  侍従職出仕

岡崎泰光  侍従職出仕

久世章業  侍従職出仕

山川三千子 女官

甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。

穂僕英子   女官

山口節子   女官

甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司在職

         中により、宮司と表記します。

 

●坊城 お上は御晩年は御病気もあって足が少しお悪くなられたようで、幾分よちよちした処が生じました。そしておズボンが長くずれて困る。きちんと結わえていらっしゃらないんですから、ズボン吊りは差し上げてあるんですが、お嫌いでお使いにならない、よく新しいのをわれわれいただいたもんです。

いつも出御は軍服ですから、お靴に拍車が付いていてそこでズボンがとまって皺が寄るのです。それでみっともないからズボンのたけを短くしたらというので侍従の方でおつめしているんですが、結局上がずるのですから同じです。そういうことはちっともお構いにならなかった。

具合のよいバンドはあの頃はなかったのか、お締めにならないで真田紐でした。

 

●久世 晩年のお足元は御不例の一月か一月半ほど前から特にお悪くなったようです。それまでは佩剣はいつも片手におさげになっておいでになったのですが、あれを杖にして奧から表の間にある三十八段をお上がり(原注 御内儀の方が高いから入御の時)になるようになりました。

そうなる前の頃、侍従さんがお毒味(おしつけ)して味が辛いとか水くさいといっておりました。あれは糖尿病に対することと思います。

そのうちお足元はだんだんひどくなって段をお下がりになる時も具合が悪くなってきました。黙って私など、はらはら一人で気をもんでいましたが、よいことに付け悪いことにつけ、一切無言です。

 

●坊城 確かにそういうことはありましたね。陛下は日本刀がお好きで、長いのを軍刀に仕込まれて杖に丁度いい長さです。一番終わりの頃は紫の縮緬で手すりがありましたが、あれを持ってお下がりになっていて、つまずかれたことがあり、「大丈夫ですか!」とつい申し上げましたが、余計なことを言えばふだんなら叱られる処でした。

 

●甘露寺 それは余程お悪くなっていたのですね。

 

〇明治の末年のことですから、糖尿病に対する治療法も現在とは比較にならない療法で対処していたのでしょう。陛下は医者ぎらいでいらっしゃつたことも悪化の一因だったと思います。