〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。

 

◎出席者

園池公致  侍従職出仕

坊城俊良  侍従職出仕

平松時賢  侍従職出仕

岡崎泰光  侍従職出仕

久世章業  侍従職出仕

山川三千子 女官

甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。

穂僕英子   女官

山口節子   女官

甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司在職

         中により、宮司と表記します。

 

●坊城 私は駿河台に居りましたから、夜になると真っ赤に空に砲兵工廠(原注 当時小石川にあり)の火が映っていました。鉄を溶かして、夜業をしておったのです。あの明かりは宮城からも見えたでしょう日露戦争で陛下はお年をお召しになったようです。

 

●平松 日露戦争の途中から後にかけて、それから終わってからも陛下が勲記(勲三等 功五級以上)にいちいち御署名を遊ばすのはえらい御苦労だったですね。墨摺りは内侍さんに決まっていました。

 

〇功五級金鵄勲章を例に取れば、下士官・准士官を対象にし、兵の最高勲章とありますから、日露戦争とはいえかなりの数になったと思われます。

 

●長谷 乾くのが大変です。汚さないように並べるのに骨をおりました。

 

●山川 夕方灯りをつけますのに勲記がいっぱいにひろげてありまして、もしものことがあってはと存じまして心配しました。典侍さんが早くしまってくれるといいのですが、…

私の覚えている夜中の奏上は伊藤さんが遭難されたときで、丁度夜の九時頃御内儀へ徳大寺さん(実則 内大臣)が上がられまして拝謁がありました。その後で「ああ、伊藤が殺されたか」と二回も

三回もお上が仰せられました。(原注 明治四十二年十月二十六日、ハルピン駅頭にて遭難)

 

〇これは日露戦争後のことですが、陛下が漏らされた心からの言葉と思います。維新の大業をともに過ごした同氏としての伊藤、また朝鮮国の経営がいかに困難なことか存じていらっしゃったがための言葉と思います。印象深い場面です。