〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。

 

◎出席者

園池公致  侍従職出仕

坊城俊良  侍従職出仕

平松時賢  侍従職出仕

岡崎泰光  侍従職出仕

久世章業  侍従職出仕

山川三千子 女官

甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。

穂僕英子   女官

山口節子   女官

甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司在職

         中により、宮司と表記します。

 

●坊城 内容は分かりませんが、いつも陛下から親しくお話しのあったのは徳大寺さんであとはやはり伊藤博文さんです。伊東さんが朝鮮の総督になったとき(原注 明治三十八年十一月就任)あの人は剣を吊るのが好きで御前に出るとき普通は剣をはずして上がるのですが、あの人は吊って出てきました。

 

〇伊藤は朝鮮総督になるとき総督は朝鮮駐留軍を指揮できる権能を持ちました。陸軍は反対しましたが、明治天皇はこれを許します。伊藤は軍の容喙を嫌ったのですが、自身が軍を指揮したいという願いがあったからかもしれません。

 

●長谷 拝謁の時、臣下で椅子に腰掛けてお話しするのは伊藤さんと山県さんだけでした。

 

〇昭和天皇の前で椅子に腰掛けたのは近衛文麿総理大臣です。

 

●坊城 伊藤さんは肘をついて気楽にお話し申し上げていました。古いことは知りませんが、皇族では有栖川熾仁親王(原注 明治元年東征の大総督 日清戦争時代の参謀総長)がお親しかった。西園寺公望さんはあまり見えませんでした。

 

●田中光顕さん(原注 宮内大臣)も信任が厚かった。

 

●側近でない人では桂さん(原注 桂太郎、日露戦争時代の首相)、側近では岡沢武官長(原注 岡沢陸軍大将 侍従武官長)がいろいろおなぐさみのことを考えました。

 

〇岡沢は侍従武官在職が長くなったので、陛下に退任を申し出たとき「お前には退任があっても、朕には退任はないのだ」といってこれを許しませんでした。陛下のお気に入りだったようです。岡沢は人力車に乗っているときに事故に遭いそれが元で病死しました。