〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。
◎出席者
園池公致 侍従職出仕
坊城俊良 侍従職出仕
平松時賢 侍従職出仕
岡崎泰光 侍従職出仕
久世章業 侍従職出仕
山川三千子 女官
甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。
穂僕英子 女官
山口節子 女官
甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司在職
中により、宮司と表記します。
●司会 側近の方々の思い出など、お上をお諫め申し上げたとか。
●山川 女官の中でも柳原さんは別格でございましたが、お上をお諫め申し上げていたということを私は存じません。お諫め申し上げたのは中山一位の局(原注 中山慶子、誕生母、一位局)と藤波さん(原注 言忠氏、侍従、御幼少以来お仕えした)ぐらいと思います。
●坊城 藤波さんはがみがみ申し上げていましたね。
●山川 お上が一寸御風邪気味のときでした。つかつかと御前に出て「お上だって人間です。御病気の時に医者の言うことをお聞きにならなきゃ駄目です」「なあお上、なあお上」といつて、お上が「うん」とおっしゃらなければ退がらんのですから、後でお上が「あれはうるさい親父だが、わしが子供の頃から」とおっしゃいました。
●坊城 藤波さんは奧でお上と向き合って申し上げていましたね。
●山川 あの人だけは天下御免でつかつかと入ってきて典侍(すけ)さんの座っている所へ座って。
●よく唇をなめる人でしたね。
●山川 太って大きい体の人で、ふだんはああいう風でしたが、ちゃんとしたときにはよくお勤めになる方でした。侍従なんかもお上がお薬を召し上がらなくて困るというときには藤波さんに申し上げておくように頼んだようです。
〇藤波言忠1853-1926 明治天皇とほぼ同年の生まれ。1889年にウイーンに国家学調査に派遣されます。これは帝国憲法の趣旨を藤波を通して明治天皇に理解していただくためのものだったようです。藤波であれば陛下も率直に尋ねることができたのでしょう。
〇藤波は憲法学を学んできても、このあとは政治に関わらず、馬匹の専門家として終始しました。