〇明治神宮崇敬会編 昭和37年刊 明治天皇50年の式年に近侍の当時生存者の記録。

 

◎出席者

園池公致  侍従職出仕

坊城俊良  侍従職出仕

平松時賢  侍従職出仕

岡崎泰光  侍従職出仕

久世章業  侍従職出仕

山川三千子 女官

甘露寺方房 侍従職出仕 受長の弟 ここでは甘露寺と表記します。

穂僕英子   女官

山口節子   女官

甘露寺受長 侍従職出仕 方房の兄 ここでは明治神宮宮司在職

         中により、宮司と表記します。

 

●坊城 四十四年頃、昼間近くに大火がありまして半鐘がよく聞こえたことがあります。華族女学校が焼けたときです。

 

●山川 あの時陛下は御自分で方向をお考えになりまして、閑院宮が近いというのですぐお見舞いのお料理を賜りました。丁度紀元節のことで、華族女学校では振り袖の生徒が水でびしょぬれになりました。

 

●坊城 二重櫓へいらっしゃったとき、市中が小さな窓から見えました。

 

●園池 私らもお供をしてそこの大掃除をしましたが、外の見える所はご覧になりませんでした。振天府(原注 吹上御所内にあり、日清戦後、台湾征伐の記念品が納めてある)へ行かれたときも あそこから警視庁の方が見えますが、陛下はご覧にならなかったと思います。

 

●坊城 行幸以外は平素は外をご覧にならなかったようです。日露戦争の時、よく提灯行列が来たことがあって行ってみようということでした。

 

●司会 ところで陛下は自分のことを何とおっしゃったのですか。

 

●穂積 記憶に残っておりますが、お上は「わしがな」とおっしゃいました。ゆったりとお内儀でされているときのことでございます。「わし」「わし」とおっしゃいました。

 

●久世 出御中には伺ったことがありません。

 

●山川 表であったことをお話になる時、「わしはこうやるのだよ」などとおっしゃいました。

 

〇公的な場や表で話す時には「朕は」を使われていたと思います。

 

☆このところ岸田総理は迷走し、財務省が暴走しています。安倍さんや菅さんが財務官僚の専横を制限していたころと様相は異なってきました。

 

☆今や財務省の天下で、岸田は賞味期限を切れたから取り替えようとしているかのようです。戦前陸軍は統帥権をたてに議会や新聞の介入を拒絶していました。陸軍と財務はともに国を滅ぼすのではないかと心配しています。

 

☆「昔陸軍、今総評」とスト権の乱用を揶揄しましたが、現在は財政再建を錦の御旗にして、国民の暮らしに超然として立ちはだかる財務省は国民の怨嗟の的になりつつあるようです。