〇昭和33年淡交新社刊

 

〇座談会参加者

●俳優 喜多村緑郎 新派     明治4年生

●歌人 宮崎白蓮 旧姓柳原   明治18年生

●落語 桂 文楽 昭和の大名人 明治25年生

●画家 伊東深水 美人画     明治29年生

●作家 子母沢寛 新選組始末記 明治25生生

●司会 奥野信太郎 中国文学   明治32年生 

 

桂 おもしろいですね。なに商売でも。

 

奥野 最近はどうして幇間を相手に遊ばないんでしょう。

 

桂 そんな世の中じゃないんでしょうね。昔でも太鼓持ちが女将に呼ばれてお座敷に出ると、お客様から「オレは太鼓持ちを呼んだ覚えはない。そこにいちゃこまるよ」なんていわれたという話がありますね。

お酌のひとつでもしょうといっても「女中がいるから、お酌なんかしなくていい。お前がそこにいると酒がまずいんだ」下に行けば「お前さん何をしているんだね、うちのお客様なんだよ。下に降りてきちゃしょうがないじゃないか」といわれる。

上にあがれば小言、下に降りても小言仕方がない、窓を開けて涙ぐんでいた。(笑い)こういう話しを円遊という話家が自叙伝みたいにして話していました。

女将がそれを見て「お前さん何をしているんだね。」「女将さん私は下に降りていいんだか、上にあがっていいんだかわからないからこうやっているんです。」というと女将がお客様のところへ行って「うちの幇間を泣かしちゃ困る」って食ってかかったというんです。(笑い)

 

〇戦後はせちがらくなって、女将が幇間を付けても客は鷹揚に遊ばすことが少なくなってしまったということでしょう。サラリーマン社長で身銭を切る人は少なくなってしまったのです。

 

伊東 昔の幇間には道楽のあげくなったという人がおおかった。いろいろな経験をしているから芸もできたしいきなもんだった。ところが戦争前には吉原あたりでは二十代ぐらいの若い人が一生懸命太鼓持ちになるための修行をしていましたよ。ああいうのは妙なもんでしたね。

 

子母沢 修行したところがしょうがないでしょうにね。

 

伊東 ずい分そういう人がいました。おかしなもんでしたね。

 

子母沢 何でも知らなければならないのだからね。

 

〇俗に話家は「馬鹿じゃできない、りこうはやらない」といいますが、幇間は相手の客を取り持つわけですから、機転の利いた利口者でないとできなかったと思います。はたして利口者が弟子入りしていたかどうかは疑問です。