〇私の見た人」昭和54年吉屋信子著 朝日新聞社刊

〇吉屋信子1896-1973 新潟市生まれ。父は内務省の役人で地方官吏を勤めていたようです。吉屋信子は小学校前に

新潟市で過ごしたようです。先日NHKの番組で日米開戦時の海軍報道班の平出英夫大佐を取り上げた番組で本書の引用があり、ネットで取り寄せて読んでみました。

〇汪兆銘1883-1944 日本との内戦を終結させるために、南京政府を組織し内政の安定を図った。孫文の直系的指導者で蒋介石と双璧であった。

 

●はてしなく泥沼にはまり込んだようなシナ事変と称する戦いが幾年も続くのにみんなウンザリしていたとき、蒋介石陣営の大物汪兆銘が日支和平を唱えて汪兆銘政権樹立と伝えられて以来この汪兆銘の名は一躍日本で「時の人」以上まさに「時の氏神」以上であった。

 

〇当時の中華民国は蒋介石は政権を重慶に移し、国土は中国共産党に浸食され、東三省には満州国が成立し、統一国家にはほど遠い状態でした。汪兆銘は日本軍の撤兵後に安定した経済体制を作ろうとしていました。

 

〇日本は近衛政権が「蒋介石を対手とせず」と宣言して以後は外交関係の維持が難しくなってしまいます。このときに汪兆銘の親日政権は日本にとって渡りに舟の条件でした。国民の多くは支那事変を終わらせたいと願っていました。

 

●たやすく日支和平が成功するかどうかはともかく…「時の氏神よってなんとかこの泥沼の戦争を切り上げられたらと一縷の望みを抱いた人は多かったと思う。」『主婦の友社』当時の社長石川武美氏もその一人であった。氏は二宮尊徳をクリスチャン二したような方だった。私に早くから同誌に連載小説を書かせた恩人だった。

 

●石川氏から汪兆銘に当てた激励の手紙を直接届けてもらえぬかと私は頼みを受けた。汪兆銘氏は蒋介石とたもとを分かって重慶からハノイに脱出後、当時上海に居られて日本と手を組んで和平工作中であった。

 

〇簡単に言えば支那派遣軍の撤兵となるのですが、陸軍は都合のよい条件をこのあと提示して、汪兆銘を苦しめてしまいます。