〇吉屋信子著「私の見た人」昭和54年朝日新聞社刊

 

〇吉屋信子1896-1973 新潟市生まれ。父は内務省の役人で地方官吏を勤めていたようです。吉屋信子は小学校前に

新潟市で過ごしたようです。先日NHKの番組で日米開戦時の海軍報道班の平出英夫大佐を取り上げた番組で本書の引用があり、ネットで取り寄せて読んでみました。

 

〇三浦環1884-1946 声楽家。蝶々夫人の役で欧米のオペラ界から評価された。上野音楽学校、滝廉太郎の門下。

 

●歌劇「お蝶夫人」で世界のプリマドンナとなった三浦環が帰国した。(昭和七年)のち、私は婦人雑誌にたのまれて対談した。

 

●うわさでは彼女は二十年もの海外生活で、今の日本人と感覚がズレている。そして海外での自分の好評をとうとうと自慢するのがイヤニナッチャウというのである。

 

●謙譲の美徳が尊ぶこの国の人々は、自慢したくてもできない日頃の欲求不満が環女史の自慢話に向かって爆発するらしかった。対談の席の料亭の日本座敷で待つと、やがて輝かしいプリマドンナは赤や青の原色のけばけばしい夜会服をふとった身にまとい、首飾りと指輪をいくつも付けた姿で現れた。

 

〇当時流行のモボ、モガを越えたフランスのアールニユ-ボーの先端の様な姿でしょう。日本人から見たらバケモノのように見えたかも知れません。

 

●それは女奇術師の松旭斎天勝の舞台姿のような錯覚を与えられたが、そのおかっぱのような断髪と、ぱっちりとした目の顔のなんとかわいらしいこと!お人形そのものである。

 

〇三浦環は背の低い小太りの人と読んだことがあります。大正からのオペラの系譜からいえば、浅草オペラの田谷力三、榎本健一、三浦環、我らがテナーと愛された藤原義江というぐらいしか分かりません。田谷さんは長生きをされたのでテレビで歌声を聞いたことがあります。