〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●なお、「下町」(しもまち)にすんでいる者同志の会話の中に「下町」という言葉が使われたが、この場合の「下町」は遊郭街…本町十四、常盤町一帯…を指した代名詞であった。「オイ今晩は下町へでも冷やかしに行ってみるか」といった工合に。

 

●それはともかく。「下町」の中心街であって、かっては運上所通りといわれ、新潟市屈指の繁栄を誇った湊町二さえ七、八年前までは世帯数百四十を数えていたが、昨今は九十を割らんとしていると聞く、人替わり、町や家並みも変貌し、周辺も又めまぐるしい程に変わって、昔日の賑わいを偲ぶよすがもない。

 

●それに近代教育、交通事情等によって、町のまばらの子供達からは、私たちの少年期の面影を探ることはもうできない。しかし、今でも文化財的にかすかに残る雁木の裏に道路のすみに、もう通れなくなって物置化し雑然とした路地跡のすみっこに、それに八千八川と歌われた堀跡の何処かにひそかに息づいている私たちの幼少年の頃の姿が、私には見える。(後略)

 

〇新潟町は江戸時代には「八千八川」「八千八後家」と別称されました。堀や川が町中を巡る美しい町。後家は娼妓のことを指し、遊郭の盛大さをいったものです。

 

〇八幡さんの著作は昭和五十五年です。後書きには世帯数の衰退がでています。この時から現在は四十年以上たっています。過疎は更に進み往事の面影はありません。

 

〇今回でこの「下町の子」は終わります。

 

〇10年ぶりの寒波 新潟市の積雪は現在のところ40センチくらいです。十二月の雪の方がひどかったです。車は雪に埋もれ、除雪車が道脇に雪を除けていますので、除雪だけで一苦労です。

 

〇しかし、気温は先日は一日中氷点下になり、ストーブとエアコンをつけても、まだ寒く感じました。階段の窓は氷結しました。この寒空に停電している地区があります。お気の毒ですが、電気に頼った生活の盲点でガスや石油のストーブを一つもっておくことが、危機管理として必要だと感じました。