〇八幡建治著 昭和55年 私家版
〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市
〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。
〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。
●運動に自信がなく、運動会は嫌であったが、遠足は大好きで、一度も欠かさず参加した。着物の裾を膝上まで内方に端折り、コハゼ付きの黒脚絆に草履履き、おにぎり、夏みかんやリンゴを風呂敷に包み、その上を雨衣用の桐油紙を巻き、真田紐に結んで腰にかつぎ、水筒と反対の腰には予備の草履を下げて学帽をかぶった姿は、当時の学童の格好いいスタイルで、はしゃぎながら、学校の帰りによく皆で囃し立てていた。
〇当時の遠足は当然歩き遠足で、その姿は想像でしかありませんが、江戸から明治の旅人の姿であったと思います。古い話ですが「おしん」が方向へ出るときの姿に近いのかなと思います。
●「鏡淵学校が隠れて,新潟学校が逃げて」
「湊学校が見つけて,大畑学校が怒って」
「礎学校が石ぶつけて豊照学校が飛んで行った。」
〇当時の新潟市内の小学校が歌われています。新潟町は商都ですから、城下町のような士族の学校はありません。
〇しかし、大畑小学校は町中の芸者さんやそれに関係する子弟が多くいました。「芸者学校」と呼ばれました。大畑小学校の特殊なところは隣の新潟小学校と同じ通りにあり、百メートルほどしか離れていませんでした。
〇鏡淵と新潟以外は、少子化のため統廃合され現在はありません。健ちゃんはこの歌から豊照小学校の子供と思います。
●この囃子ことばを声高く唱えながら、四百三十間、日本一長い木橋萬代橋を渡り、土手を左折して、タンポポの乱れ咲く中を「来たれや友ようち連れて…」と歌って山の下へ行った遠足風景はね今でも叙情詩の様に心の豊かさ、安らぎを甦らせてくれる思い出となっている。
〇新潟町から萬代橋を渡り、対岸の山の下まで、当時の山の下は人家も少なく景色のよいところと思います。