〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●その頃は、お昼は弁当を持ってきても、また学校近くの者は家にお昼ご飯を食べに行っても自由であった。家に帰って、母と一緒に食事をしたが、何か母が頻りに私の挙動に注意しているような気がした。

 

●いつもと同じに行儀よく食べているはずなのにと思っていたら、母が「健ちゃ、おまえどっか悪いんじゃないかい」と聞かれた。「いやーなんでもないがね」と答えたら、「そーう何だか変だね。茶碗持っている手が、さっきからだんだん下がってくるれ。もっと手を上げてみた」といわれ、茶碗を持ったまま左手をずうと上げてみたが、痛くて直ぐ下がってしまう。

 

●「それ、見たか、やはりどっか悪いんだレ。何したんだね隠さず正直に言ってみた」といわれた。私は別に悪いことをしたのではなく昨日の騎馬戦の話をして「ただ打っただけなので、そのうちに治るだろうといた」といったら、「馬鹿な、きっと肩の骨が折れているんだれ。そんなことをしておれば、お前一生片輪になってしまう。早く手当てをしないと取り返しつかなくなる」と昼食半ばのまま、すぐ近所の平田薬種屋から、猫山アイスを買ってきて貼ってくれた。

 

〇騎馬戦で騎手をしていた健は、もつれ合って落ちて肩を強く打った。それを母は見逃さなかったのです。

 

●アイスを溶かした酢のひやりとした感触が真に気持ちよかった。「あんまり無理しないで、できるだけ手を動かさんようにするんだれ」と注意を受けて学校へ行った。

 

●アイスを貼ったせいか午後から、午前中のような傷みも無く、午後の受業を終えて帰ってきたら母が「明日ちょうど猫山の先生が新潟に来る日だそうだから、朝の内に診てもらいにいくから、今日はどこへも行かず本でも読んでいるんだれ」といった。

 

●当時新津の猫山骨接ぎ医院の院長先生が、週一回日曜日に西大畑郵便局の今の肉屋の隣を診療所として出張診察に来ていた。翌日母に連れられて猫山に行ったが、診察の結果左肩鎖骨挫折であった。全治まで約二ヶ月近くかかったが、学校は一日も休まずにすんだ。

 

〇猫山アイス 冷却する湿布薬であろう。猫山の名は前にも書きましたが、新潟の者には骨接ぎで有名でした。ここで私は初めて猫山が新津の医者であることを知りました。私の子供の頃は小林デパート近くの「川上骨接ぎ」と猫山が有名でした。

 

〇猫山の診療所は現在の荻野通りのあたりと思います。その後猫山宮尾病院として寄居中学校の裏山にありました。現在はそこから移転し、新潟市民病院の並びに営業しています。

 

〇猫山病院のルーツは新津町にあったと言うことです。