〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●私たちが子供の頃は、一晩で六〇~七〇センチの降雪は珍しくもない、時には一メートル以上の降雪もままあった。それに吹雪が加わっても,今日のような除雪車などは思いもよらぬ時代で、コスキ(木製のスコップのようなもの)一丁を頼りの雪との戦いの日常であった。

 

〇昭和初期には新潟港に流氷がきたと記録にありました。数年前には八〇センチの積雪があり、去年の12月には四〇センチの積雪がありました。雪は大量に降れば邪魔になる厄介なものです。

 

〇大正時代の積雪は機械排除できないので、大雪になれば冬ごもりのように家に閉じこもって溶けるのを待つしかありません。

 

●もちろん、子供達を誘った遊び場所は雪に閉ざされ、訪れるところもない。だがコタツは雪に濡れた着物の裾か足袋を乾かすぐらいで入るくらいで、じっと暖を取ることはしない。母の隙を狙って雪の町へ飛び出して行く。

 

●雁木(がんぎ)の通りのあちこちに二三人ずつ遊んでいる。小さい雪球を雁木の柱に押しつけて堅め、それを足駄のつま先にくりまわして、少しずつ雪を被せ太らせてはその上に足駄を履いたまま、つま先だっては固め、「雪デンガ」(雪玉をぶっつけあって、割れた方が負け)に興じ晴れ間を見て大通りに出て、雪を踏みつけて代わり番に下駄スケートならし、夜の凍るのを待つ。

 

〇雁木は軒を伸ばして、表通りの商店を雪道を歩きやすくした、木製のアーケード。

 

〇雪デンガは私の小学校時代もやりました。固く握った雪玉をコンクリートの壁にぶつけて芯をつくり、長靴の下でこねて、雪玉を育てていきます。ぶつけ合って勝負しました。今雪の中で遊ぶ子供などめったに見ません。

 

●夜になると下駄を履いて、凍みた上を横滑りする。マントも脱いで走った勢いをかって横滑りしその距離を競った。こんな単純な遊びが雪国の子供達の、雪や寒さに対する伝統的な負けじ魂の表れであったのだろう。

 

〇大体自分の子供の頃と同じようなことをしていたんだなあと気づきました。私は「シモヤケ」がひどかったのですが、八幡さんはその事に触れていません。