〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●その他古町十三番町今の大要劇場の前に丸山館という活動写真館が、私の小学校五年生の頃にできたようであったが、ここも遠く夜道が暗かったので行かなかった。

 

●活動写真で思い出されるのは、学校で引率して観に行ったことが二度あったことだ。一度目は五年生の時、普段は活動写真のない本五座に歴史劇「元寇」が来たときであった。本五座は前に述べたように芝居や寄席的なものが専門であったが、映写設備はあった。それは、芝居の最中に舞台では現しにくい野外を舞台とした場面を、あらかじめ映画に撮って置いて(今のロケーション的なものだったと思うが)芝居の進行中に活動写真に切り替えていた。連鎖劇とかいって大変人気を呼んだ。

 

〇連鎖劇は古い雑誌で読んだことはありますが、いままで意味不明でした。テレビでは普通に動画の合成をしていますが、大正時代は珍しかったでしょう。舞台と活動写真の両方楽しめるというわけです。

 

●もう一度は六年生の時、コンピラ館に今の天皇(昭和天皇)が摂政殿下の時に欧州各国を訪問された記録映画か来たときだった。お召し艦鹿取、鹿島の偉容に胸躍らせたもさることながら、解説弁士がモーニング姿であったのが、印象に深く残っている。

 

〇摂政殿下 大正天皇の御病気が深刻となり、皇太子殿下が天皇の職務を代理される摂政の宮となられました。

 

〇私も中学校の時に学年そろって映画を見に行ったことを思い出しました。昭和44年「日本の一番長い日」を学校のある関屋から東中通の新潟日報文化ホールまで歩いて行きました。

 

〇当時は左派の先生が多く、反戦という意味で生徒を連れて行ったと思います。私の担任はこういう映画を観ることには意義がある。といっていたように思います。

 

〇とはいっても、私たちは戦争経験がなく、自分が生まれる前に親が戦争へ行った世代ですから、あまり印象に残りませんでした。この映画は私が成人して当時の事情が理解できるようになってからは数回観て勉強になった作品です。

 

〇原作者の半藤さんは、昭和の語り部的な方でした。昨年残念にもお亡くなりになってしまいました。半藤さんの著作で戦前期の世情を理解することができました。