〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●それでもたりなかったのか、四年生の時蚕を飼い、桑取りに、あそこがいい、ここがいい、否、願随寺の桑より隠亡(おんぼう)やの裏の桑がいいと聞けば、直ぐに飛び出して行った。

 

〇隠亡や 焼き場のことと思います。江戸末から大正は水戸教の近くにあったと思います。に

 

●母は最初、私の蚕飼いには大反対であったが、学校の勉強に関係があるというので、渋々納得したらしい。それがいつの間にか
お蚕様、お蚕様といって進んで面倒を見、よく夜中に起きて桑の補給をしてくれた。

 

●ある日、母が今の西湊町一天理教教会の向かい角の、名前は忘れてしまったが、ナンデモ屋から、古物の所々痛んでいた饅頭笠二つ買ってきて一生懸命に布海苔を塗っては新聞紙を幾枚も買って、その上に茶袋を開いた紙を貼っていた。

 

〇饅頭笠 お椀を伏せたような形の笠。明治時代には人力車夫や郵便夫が使用した。

 

●私は内心一体母は何をするんだろうと思っていた。母は繭を煮ながら糸を手繰り、饅頭笠に幾重にも重ね天日に乾かし、そして藍を溶かして又丹念に塗って、一週間ほど天日に乾かして綿ぼし(帽子ではない。背中に掛ける一種の防寒具で、これも正式の別名があったのかもしれないが、幼いときに聞いた言葉のまま用いる)を作った。

 

〇母は繭を煮ながら糸を手繰り、饅頭笠に絹糸を張ろうとしています。明治初年から10年代に生まれた女の人はこのようなことが当たり前にできたのでしょう。そして「綿ぼし」を作ります。これは、現在では解りませんが、風邪引きの予防でしょう。

 

〇明治の20年頃まで写本の文化がありました。貴重な本を紙に写し、糸で綴じて表紙を付けます。表紙には藍を塗って虫食いを防ぎました。読書人であれば、当然身につけていた技術です。

 

〇勝海舟はヅーフハルマというオランダの辞書を借用して、写本を二部作り、その一部を売って学資を作ったという努力家です。幕末から明治にかけては何事も手作りで対応していました。

 

●残った真綿を普通の綿を丸めた上にかぶせて、風邪の時のどを温める首巻きを二三本作った。「健ちゃん、寒くなったらこの綿ぼしを着て学校へ行くんだれ。お前が飼ったお蚕様から作ったんだからのう。来年もお蚕様飼おうて」と母がいったが、蚕を又飼うのはいいとしても、おばあさんの着るような綿ぼしはとても着れない「おらもう蚕を飼うことはやめた。寒くなったらオタタ二枚着ればいいがね」といって母子大笑いをした。しかし、首巻きは風邪を引くと着用して学校に行ったが、同じ首巻きをした学友がかなりいた。

 

〇首巻きについては私は着用したことはありません。一二年生の頃首にガーゼのような首巻きをした子がいたように記憶しています。