〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●父は前にもいったように不在がちであったが、家にいるときは、私からいうのは一寸変であるが常にキリッとした良い男であった。漁師が来ると、父のところへ船頭さんや水夫さんがよく遊びに来て朝から酒を飲んでいた。

 

●私が四五才の時だったと思う、例によって水夫さんが三人、夕方父を訪ねてきて、しばらく頭をかいたり笑ったりして話をしていたが、父が船箪笥から赤い小さい鞄を出して確か十円札だったと思うが、その中の一人に渡した。

 

●水夫さん達は何度も頭を下げて「では船長さん、健ちゃんを借りていきますよ」といって私をでん車(肩車)に乗せてでていった先がなんと、常盤町の女郎屋であった。

 

〇常盤町というのは初めて聞く町名です。遊郭は古町十三番町の辺りにあったと聞いています。ここらに常盤町はあったのでしょう。

 

●彼等は、私を奧の座敷に置いて、「この子を頼むぜ」といったまま、サッサと二階へ上がっていった。長火鉢の脇にいた一寸母に似たような女将がわらいながら、茶箪笥の中からお菓子を出してくれたり、きれいな真っ赤な着物を着た色の白いいい匂いのする女の人たちが、私に何かと話しかけていた。

 

●私は何が何だかわからない。まして女郎の何たるかを知ろうはずのない私は、大きな家で昼のように明るい大きな電灯のついた部屋に、女の人に囲まれ、家には坐ったことのないふんわりとした赤い座布団の上にのり、お祭りの時にしか見たこともない大太鼓を預けられて、まんざら悪い気もしなかったのだろう、大いに満悦して彼等の存在を忘れて遊んでいたのを微かながら覚えている。

 

●後で、勿論水夫さん達が父から大目玉を食ったことや、彼等は最初、活動写真を見て帰りに皆で一緒に夕食をたべるつもりであったのが、途中話が変わって別の方向に話しがまとまったんだということを、母から聞かされた。とにかく私は居心地は良かったが、幸い、これがやみつきとならずに、我が青年期を無難に過ごした。

 

〇女郎屋の御内所で子供を預かったというのは驚きですね。船首の父は有名人でしたので、子供を預かったのでしょうか。当時の水夫の程度の低さが分かります。

 

〇この二三日気温が上がって、私の車の廻りの雪が溶け、明日は車に乗って買い物に行けそうです。除雪で道は狭くなっているので対向車が来るとドキッとするところです。