〇八幡建治著 昭和55年 私家版
〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市
〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。
〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。
●目が覚めたときには、寝間のガラス戸が明るく、朝を迎えていたようだ。寝間の隣の台所で母が食事の仕度をしている気配がした。ようやく朝だという意識がはっきりしてきた。「オタタ」と母を呼んだら「おや、目が覚めたかい。よう眠ったのう。気分はどうだい」
と、うれしそうな声を弾ませて寝間に入ってきて、早速額に手を当てて「おや、熱がないのう。よかった。よかった。これじゃ何か食べれそうだ。何か食べたいものはないかい」と訊いた。
●私は一寸考えて「ネ、オタタ、バナナが食べたい」と答えた。母は少し思案顔をしていたが、「今熱が下がったばかりで、バナナを食べると又熱が出ると悪いから、バナナは明日にしようのう、その代わりオタタが、今甘い葛湯をこしょうてやるから一寸待っていれて」といって、台所へ行き、間もなく、ご飯茶碗に半分ぐらい葛湯を入れてきた。
〇私の幼児時代はまだ、バナナが貴重品で、バナナはおみやげか、もらって食べるものでした。家で買った記憶はありません。病気になると良いものが食べられるのは同じでした。ミカンやパインの缶詰などはその部類です。
〇大学生の頃、お金がないと近くの八百屋でバナナを一山買って食べていました。もうその頃はバナナは自由化されて。以来子供達にとって特別な食べ物ではなくなりました。
〇私は今でも時々バナナを買います。幼時の時にバナナを食べられなかったことに対する恨みでしょう。
●葛私の口に少しずつ入れてくれながら「健ちゃんよかったのう。神様がお前の熱を皆持って行ってくれただれ。もう心配ない。器用先生が来ても昨日のことは黙っているんだれ。」と口止めをした。
●私はどういうことか分からなかったが、だだ「うん」と返事をした。その日の午後、いつものように先生が診察に来たが、又首をかしげて、二度も熱を計り直していた。「オタタ、やっと薬が効いたようだのう。熱も平熱になったし、もうこの分では大丈夫だ。心配はない」といった。
●母は神妙に「ハイお陰様でありがとうございました。」と何度も頭を下げて礼を言っていた。私は今でも熱の下がったのはお祈りのためなのか、薬のためであったのか分からない。
〇母は神主の祈祷のおかげで子供を助けてもらったと思っているはずです。宗教が生活と濃密につながっていた時代といえます。