〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●八月二十二日、二十三日の住吉祭(今の新潟祭りの前身)には、町内に紅白の幕をめぐらし、表通り一軒一軒の軒先に、大きな

ナツメ型の桜花模様のついた祭り提灯に、桜傘を挿した提灯立てを打ち立てた中を、豆絞りの手ぬぐいで向こう鉢巻きに祭り半天の元気のいい若衆たちが、何番組と彫りおこしの金縁額を先頭にしてくる。

 

〇新潟の総鎮守は白山神社ですが、境内に住吉神社が別に建てられています。新潟町は北前船の拠点でしたから、新潟祭りと呼ぶ前は、海神をまつる住吉祭と呼んでいました。御祭神を載せた御座船が新潟町から対岸の沼垂町まで渡御します。

 

〇白山神社には備後国尾道の船頭中によって航海安全の石の鳥居が江戸時代に奉納されて現存しています。

 

●その後から年配の麻の裃袴姿の人が、拍子木を鳴らし、伸びやかに歌う木遣りの合いの手を入れている。別の若い衆が錫杖を地面に打ち鳴らしながら、御座船の露払いをしてくる。

 

●御座船を迎える町内顔役の六人衆は、暑いのに紋付き羽織に袴姿の白足袋、真新しい草履を履き、恭しく迎えていた。私は町内の六人衆はやはり偉いなあと思うと同時に、御座船に乗っている人たちの威儀を正している姿を見て、この人達はよほど偉い人たちだと思っていた。

 

●それが、長ずるに及んで、顔見知りの人たちが乗っているのを見て、そう偉くなくても乗れるんだと思うようになった。昨今は、あの人が、と思われる人が多く乗るようになった。多分偉い人が少なくなったのだろう。それを迎える町内役員も、大方が半袖シャツでサンダル履きとくれば、丁度よい取り合わせかもしれない。

 

〇戦前と戦後では様変わりになったことへの皮肉でありましょう。

 

〇ここまでの、文は概ね現在の新潟祭りと同じです。

 

〇昨日から降り続いている雪は50センチ近くになりました。夜中にかけてブルトーザーが除雪をしています。新潟市は海岸に近くシベリアからの風を佐渡が防いでくれるので積雪は少ないのですが、数年に一度くらいは大雪が来ます。私の記憶している中では1メートルの積雪になった時が最高です。

 

〇今年は十二月に大雪が来ました。珍しいことです。県内の鉄道は明日もほぼ運休です。

 

〇私の車は雪に埋もれてしまいましたが、退職していますのでのんびりと寝ることができます。会社勤めの頃は朝雪から車を掘り出したり、天気のよい日は雪を減らすために積もった雪を道路に投げて道を広げなければなりません。

 

〇温暖な地方の方には、分からないつらさがあります。冬の費用も重なるものがあります。