〇八幡建治著 昭和55年 私家版

〇明治41年生まれの著者が語る大正から昭和の新潟市

〇表題「下町の子」は新潟市の町中の生まれであれば「しもまちの子」と読むはずです。

〇「しも」とは新潟市の総鎮守白山神社を「上 かみ」一番町とし、大体十二番町以降の信濃川の川口近くまでをいいます。

 

●引っ越してしばらくして内職として母が菓子とお茶の店を開いたので、幼い頃から甘い物に不自由しなかった。それが胃腸を悪くしたひとつの原因であったのかもしれない。

 

●それよりも、虫歯には悩まされた。虫歯が痛み出すと、まず、オイッチニの膏薬が貼られる。当時家庭常備薬といえば、内服用では正露丸、富山の万金丹、毒消丸、切り傷、打ち身、頭痛、歯痛等には膏薬か貝殻入れの練り薬を生紙に延べて貼っていた。

 

〇オイッチニは明治の風物詩で、日清戦争時の軍服を着て、手風琴を持ち歌いながら、オイッチニと調子を取って売り歩く行商の薬売りです。わたくしは本物を見たことはありません。

 

〇私の幼年の頃でも、大人はあまり医者に行かないようでした。歯痛には「根治水」という売薬を虫歯に詰めていました。薬は富山から行商のおじさんが年に数回来ていました。

 

●そうでなければ、梅干しの皮が貼られた。膏薬にしろ梅干しにしろ体裁の悪いこと、とてもそのままでは学校に行かれない。つい、休んでしまう。私たちの近所にはなかったようだが、勿論どこかに歯科医はあったはず。

 

〇落語で梅干しの皮を顔に貼ったおばあさんがでてきますが、大正時代まで民間では行われていたことがわかりました。

 

●その歯科医も当時には、入れ歯か金歯を入れるときでもなければ行くところではないと一般には考えられていたのかも知れない。虫歯の痛みはほとんど素人療法で辛抱する家庭が多かった。

 

〇先日新書本の古書で、1960年以前の生まれと以後の生まれで、生活は激変したという本を少し読みました。私は1960年以前の生まれで1970年には高校生でしたから、60年代の幼年期は戦前の暮らしの匂いがありました。

 

〇70年代に幼年期を過ごした者は、すでに高度経済成長に入っていたのでそれ以前の人とは全く違った人である。というのです。面白い分類です。納得するところがありました。

 

〇八幡さんの体験のいくつかは共通する部分が有り、なるほどと思うのは自分が1960年以前の昔体験をもつ日本人ということができるでしょう。