〇昭和17年刊、編者は原田熊雄。男爵、西園寺公望の晩年の個人秘書。「西園寺公とその政局」を編集し東京裁判の対策を立てたということで名を残しています。

 

〇わたしは30代に東京の古書市で原田熊雄が山下亀三郎に宛てた手紙を買いました。悪ふざけしたような内容でおかしな手紙でした。原田は冗談ばかりいう愉快な人であったようです。以来原田と西園寺の関連本を読むようになりました。

 

〇この本は戦後復刻されていますが文庫化はされていないようです。

〇西園寺公望1849-1940 陶庵は号。

 明治39年と44年内閣総理大臣。最後の元老として昭和に入ると晩年まで後継総理大臣を天皇に奏請した。

 

●かつて某大将と、汽車に同乗したとき、副官が大将の靴を脱がせているのを目の当たりに見て、実に不快な心持ちにさせられた。

 

●一方が以下に将軍であろうとも、他方が、仮によしんば一兵卒であろうとも。いやしくも、陛下の軍人である以上、共に軍人としての威厳は保つべきである。

 

●身辺の世話なら、他に自らこれに当たるべき者もあるはずだ。犬馬の労をもいとわないという精神を履き違えて、かえって上官の徳をきずつけるような、かような勤務ぶりは厳にいましむるべきだ。

 

●軍人は、一舜たりとも、陛下の軍人たるの自尊と、同時に謙虚とを失ってはならない。

 

〇これは、帝国陸軍の事例ではないかと思います。陸軍では上官を、中尉殿、上等兵殿、班長殿などの敬称をつけて呼びました。陸軍は旧藩の主従のような関係が残っていました。一旦、聯隊が決まれば、除隊まで関係が続くからでしょう。

 

〇海軍では官職名を呼び、敬称は付けません。班長、分隊士、中尉など。船を動かす一員としての意識があり、主従関係は弱かったようです。船の転勤があるためです。

 

〇明治の読み物に東郷大将が陸軍の将官と軍艦に乗っていたときに兵が、「艦長、どいてください。」「ああ、はいよ」と答えたのを陸軍の将官は見て、「恐ろしいものを見た」とありました。

 

〇海軍の方が少し民主的であったようです。我々も社長や部長に対し必要以上に忖度したり、私的な問題に関与したりしますが、こういうことを西園寺は戒めているし、そのような関係で動く団体を国民は軽蔑しますよ、といいたいのです。

 

◎阪神タイガース  終戦しました。最後の試合は阪神の課題が浮き出ていました。普段やっていること以上のものは試合には出ないということです。

 

◎負け越し球団が日本シリーズに出るようなことがあっては、球界のためにならないと思っていたので負けてよかったと思っています。

 

◎次期監督に岡田の名前が出ると、評論家の中から矢野采配のおかしいことを指摘する方が何人かでてきました。守備位置の固定をしなかった結果、守備が不安定になり、エラーが多くなった。エラーが多くなってもピッチャーは自責点にならないので防御率は良い。などなど

 

◎矢野は偉大な実験をやったような気持ちで、自己陶酔していましたが、自分だけが感激して、泣いているようで不思議な景色でした。私は矢野の4シーズンを批判的にみてきました。

 

◎来シーズンは基本回帰の野球になると思います。