〇昭和17年刊、編者は原田熊雄。男爵、西園寺公望の晩年の個人秘書。「西園寺公とその政局」を編集し東京裁判の対策を立てたということで名を残しています。

 

〇わたしは30代に東京の古書市で原田熊雄が山下亀三郎に宛てた手紙を買いました。悪ふざけしたような内容でおかしな手紙でした。原田は冗談ばかりいう愉快な人であったようです。以来原田と西園寺の関連本を読むようになりました。

 

〇この本は戦後復刻されていますが文庫化はされていないようです。

〇西園寺公望1849-1940 陶庵は号。

 明治39年と44年内閣総理大臣。最後の元老として昭和に入ると晩年まで後継総理大臣を天皇に奏請した。

 

●そこまではいいのだが、その話しを当時のパリ駐在公使、鮫島尚信氏にうっかりしゃべったところ、大変な心配で、

「とんでもないまねをしたものだ。そんなことが万一、フランス政府の知るところとなってみなさい,とても一個人の問題ではすまないから。徳川時代に始まり、一度危機をはらんだ日仏の国交をやっとここまで好転させてきた矢先に、君の軽率な行動から、どんな大事を引き起こさない限りでもないのだ。見つかればきっと国際問題になる。」

 

というさわぎで、自分はまさかそれほどのこととも思わなかったが、一応恐縮していると、

「この上は、いっそ当方からフランス政府へ申達して,受けるべき処分があるなら潔く受けるか、さもなければ、即刻君に帰国を命じるよりほかない」

 

〇幕末にはフランスは幕府の依頼で軍事技術団を派遣し、外交でも支援しました。明治になり、普仏戦争でフランスが敗れると明治政府はフランスを捨てドイツの軍事技術をとりいれます。

 

〇そのためにフランスの対日感情は悪化して西園寺の滞在時にはその感情がまだ残っている時代です。

 

●ますますえらい剣幕で自分も、そんなことで返されるのも嫌だし、さうかといって他国の牢屋にぶち込まれたりしたひにはなほたまらないから、ひたあやまりにあやまってしまったが、どうも実に、あのくらい弱ったことはない。

 

〇フランス政府は昔の革命文書には違法性がないと判断したようです。鮫島公使は官僚なので先走って心配をしすぎたことになります。