〇昭和17年刊、編者は原田熊雄。男爵、西園寺公望の晩年の個人秘書。「西園寺公とその政局」を編集し東京裁判の対策を立てたということで名を残しています。

 

〇わたしは30代に東京の古書市で原田熊雄が山下亀三郎に宛てた手紙を買いました。悪ふざけしたような内容でおかしな手紙でした。原田は冗談ばかりいう愉快な人であったようです。以来原田と西園寺の関連本を読むようになりました。

 

〇この本は戦後復刻されていますが文庫化はされていないようです。

〇西園寺公望1849-1940 陶庵は号。

 明治39年と44年内閣総理大臣。最後の元老として昭和に入ると晩年まで後継総理大臣を天皇に奏請した。

●陸奥宗光伯爵は、有為有能の人材だったし、かつまた、人を見る明があった。つとに、加藤高明や原敬を認めていて,加藤が外務省に入ったのも、全く彼の推薦によるものだ。

〇陸奥宗光1844-1897 下関条約時、外務大臣

〇加藤高明1884-1897後、総理大臣

〇原   敬1856-1921後、総理大臣

 

●陸奥伯の肺病と来たら有名なもので、これには加藤もよほど閉口していたらしく、馬車に同乗すると、神経質な加藤は、きまって窓を開けるし、それと察した陸奥伯が、すぐさま閉めるように命じる。とか、わざと食いかけの菓子などを与えるとか、陸奥は陸奥でいろいろと悪戯をしては面白がっていたらしい。

 

〇陸奥は少し変わった人で、紀州藩士でありながら勝の海軍伝習所に出入りし、坂本とも関係がありました。徳富蘇峰の回想では熊本の蘇峰の家に出入りし、化粧をしていたと書かれています。蘇峰の感想では家中の者に嫌われていたと書かれています。

 

●加藤はしかし、本当の紳士だ。第一次西園寺内閣の時、鉄道国有に反対して外務大臣を辞職してしまったが、その後、この件について、自分(西園寺)に対して悪放ったことなどもちろんないし、少しも態度が変わらなかった。そういう謹直な人だけに、陸奥伯の悪戯には、よほどまいったことだろうと、話しを聞いただけでおかしくはあり、気の毒ではあるし…