〇昭和17年刊、編者は原田熊雄。男爵、西園寺公望の晩年の個人秘書。「西園寺公とその政局」を編集し東京裁判の対策を立てたということで名を残しています。

 

〇わたしは30代に東京の古書市で原田熊雄が山下亀三郎に宛てた手紙を買いました。悪ふざけしたような内容でおかしな手紙でした。原田は冗談ばかりいう愉快な人であったようです。以来原田と西園寺の関連本を読むようになりました。

 

〇この本は戦後復刻されていますが文庫化はされていないようです。

〇西園寺公望1849-1940 陶庵は号。

 明治39年と44年内閣総理大臣。最後の元老として昭和に入ると晩年まで後継総理大臣を天皇に奏請した。

 

●その帰途、自動車の中でのお話しのうちに、

 殿下が、政争の醜さを憤慨、というより軽蔑されておいでだった       から、こう申し上げておいた。とて次のように語られた。

 

●「いくつかの政党が分立しているというのは、もともと争うためであります。但し、利権や私情の争いは断じて許されるべきでなく、常に君子の争いでなければなりません。議会においては、正々堂々と、各自の所信を披瀝し合い、真面目に討論を戦わすべきで、殿下が政争そのものを非難あそばされることは、御再考を煩わしたいと存じます」

 

〇西園寺が殿下と対話したときのことを原田に語っています。政党政治の意義について語っていますので、ここでいう殿下は「摂政宮殿下」つまり昭和天皇のことです。

 

●事実そういう具合にいってないのは、政争そのものが悪いからでなくて、いわゆる「政党屋」連中の質の粗悪を暴露しているだけの話だ。それとこれとははっきりと区別して考えなければいけないのだからね。

 

〇西園寺は中江兆民と同じ、フランス留学組です。政党政治を擁護し、薩長の藩閥超然内閣とは一線を画しています。摂政の宮殿下は政府に反発する野党の意義がお分かりにならなかったのでしょう。

 

〇政府の揚げ足を取る「政治屋」はダメだといっています。現在の政争も宗教団体の本質や存在自体を議論するのではなく、誰が関わったのかという「マッカーシーの赤狩り」のような報道や野党の動きを見ると百年前の憂いを見るようです。