○坊城俊良著 宮中五十年 明徳出版 昭和35年刊

○坊城俊良1893-1966 幼少にして侍従職出仕以来、宮内官として皇室に奉仕した。旧伯爵。

○明治天皇1852-1912

○貞明皇后1884-1951(大正天皇皇后)

●日露戦争の前後

 

●日露戦争の頃、夜になると、御座所から小石川砲兵工廠のあたりに、天を焦がす火花が見えた。工廠でやっている作業の火花が,夜空に反映しているのである。そういうとき、陛下は侍従武官長や武官を呼んで色々説明をお聞きになられた。

 

○砲兵工廠は陸軍の兵器を製造する工場。東京ドーム周辺に存在した。

○侍従武官、陛下の軍事的な御下問に答えるために置かれた官職。陸海軍現役武官が補せられた。

 

●大本営が宮中にあった頃、ぞくぞく戦捷の報告がある。方々陥落の知らせがあるごとに、提灯行列が宮城前にやってくると、私たちにお前達は提灯をつけてあの行列に答えてこい、とお出しになった。

 

○皇室や国家の慶事があると、国民は、ほうずき提灯を持って夜間に大行列を作り市中を行進した。東京では宮城前をめざし、万歳を唱えた。

 

○群衆からすると宮城の高殿に提灯の灯がともれば、陛下が我々の赤誠に答えて下さったと感激したことであろう。

 

●会議の時には御学問所の中を取り払って、議場にされた。私たちはローソクを持って行って卓上に並べてくるのだが、会議が済んで、出席者が退出した後、陛下の御気色は何の変化もなかった。

 

●たまに、よほど気にかかることがあったと見えて、何か独語しておられたこともあった。そういうときは、しばらくすると、必ず侍従長をお呼びになり、御下問や御下令があった。

 

●当時は徳大寺侍従長であったが、御下命によって調べた結果の報告は、必ず巻紙に認めた文書で差し出された。巻紙も封筒も、特別のものではなく、ごくありふれたものが用いられていた。急ぎの時は即日、夕方以降は翌朝に差し出されるのが通例であった。

 

○日露戦争の時の陛下の御心配の例としては、旅順要塞の攻略で万に近い死傷者を出したことです。第三軍の司令官は乃木希典大将でした。陛下は指揮官交代論を退けて乃木を擁護します。このことが乃木夫妻の殉職の原因の一つといわれています。

 

○海軍は旅順港の敵艦隊攻略の時に、露西亜の浮遊機雷に海軍軍艦が接触し、二隻を一瞬に失いました。

 

○この報が東京へ届くと海軍大臣と海軍軍令部総長は責任を取って陛下に辞表を提出しますが、陛下はこれを許さず、「お前達は辞めて責任を逃れることができるが、朕には辞職などないのだぞ」

という意味のご発言をされます。日露戦争は日本国の存在をかけての戦いでしたから、最後まで自分とともに戦えと励まされたのです。

 

◎またも負けたかタイガース7連敗。どうも巨人の現在の戦力は阪神の数段上のように見ました。藤波は開幕試合の好投は今日の投球につながらず、藤波は今年も例年通りの予感がします。9連敗までありそうです。