○坊城俊良著 宮中五十年 明徳出版 昭和35年刊

○坊城俊良1893-1966 幼少にして侍従職出仕以来、宮内官として皇室に奉仕した。旧伯爵。

○明治天皇1852-1912

 

●陸軍士官学校の卒業式などには公式で行幸になったが、お天気がいいときは、出発の間際になって、「今日は天気がいいから、馬車のホロを割るように」と命じられるのが常であった。あの頃の馬車のホロは二つに割れるようになっていた。

 

●こうして、無蓋馬車で、沿道の市民に親しまれながら、親しく市内の有様を御覧になりながら、お出かけになるのが非常にお好きであった。あらかじめこのことを仰せ、出されることはなく、いつも出発間際に「ホロを割るように」と命じらたのも、深いお考えがあってのことであったと思う。万事、手数をかけず、御警衛の変更などもさせないよう、気軽に振る舞われるのであった。

 

○行事で出る以上はなるべく、民に自分の姿をみせてやろうというお考えだと思います。

 

●明治四十五年七月、帝国大学の卒業式(今の東京大学)に最後の行幸をされたときは、おからだの具合も弱っておられた。階段の昇降には軍刀を杖にして相当の御疲労の模様であった。

 

○明治天皇は同年九月に崩御されます。亡くなる直前までご公務をされたのは驚きですが、明治の医学では天皇を入院させる説得力がなかったのです。明治天皇の侍医達は直接体に触診することが許されず、脈は糸を使って取っていました。天皇の体に直接触って診察することが許されたのは大正天皇以降のことになります。