○雑誌「あまから」1950年から60年代に大阪で発行されたタウン誌です。食に関するグルメ雑誌のさきがけ。以前に取り上げましたので、2回目の続編になります。

 

○池竹中郁1904-1982詩人

 

●大正7年か8年かだった。そう。7年の夏には神戸には米騒動の焼き討ち事件があったので、その明くる年の夏休みだ。8月2日か3日かに兄に連れられて大峰山に登った。

 

●大峰山は修験道の山伏姿で登るのが近畿の風習であったが、そのころ日本にはやりはじめた近代登山のつもりで、兄や兄の友人が企画したらしい。それで私も連れて行ってくれるということになったのだった。

 

●まだ近鉄電車のなかった頃だから、神戸を早朝暗いうちに立って、大阪から大和高田をへて吉野口、下市を経て、そこの「つるべずし」で鮎の押し寿司を食べた。ここの娘が、維盛に惚れたンや、兄が権太というてナ」と私がいうと兄の友人がみなびっくりして

「子どものくせにえらいことをしっとンネな」

とあきれ顔をした。へんにゴテゴテとした庭石の多い縁側で、寿司を食べながらの話しである。

 

○維盛 平維盛のことであろうか。

○下市の「つるべずし」は日本最古の寿司屋で、鮎の押し寿司は名物だそうです。

○平維盛は戦に敗れ下市の「つるべずし」にかくまわれたという伝説が残っています。歌舞伎の外題にもあり権太は「いがみの権太」として登場します。以上ネットの「つるべずし」の検索出見つけました。

 

●洞川という大峰の行者宿につくとあちこちの講の名を木札に刻んで、漆で塗り上げられたのがずらりと天井まだの腕間をうずめている。その下に一段と大きくついたて風に畳に立てるようにして、陀羅尼助と金文字で彫り込んだ仰々しいのが立ててあった。

 

○講 信仰のためにできたグループを講とか講中と呼び、グループで積み立てをして、その金を補助に何人かかわりばんこに山にお参りをした。伊勢講、富士講など様々なものがあり庶民の旅の楽しみでした。講ごとに泊まる行者宿はきまっており、講の名の木札をかけていました。

 

●子供の頃から聞いていた「ダラスケ」はこれだなと、すぐ納得した。ほかにこんな音の単語が我が国にはありそうもないから、中学生にも類推できたのだろう。

 

●後年いろんなものを読むようになって,陀羅尼という経文があってそんなところから,万能の薬に名が移って来たと知ったのだが、子供の頃はただ母が「ダラスケを飲みなはれ」腹痛を訴えるとこだまのように返事され、それがしみついたというわけである。

 

●ダラスケは大峰に生える薬草をもとに練り上げて竹の皮に包み、それを重ねて重しをかけたものと思われる。竹の皮を開くと底光のした黒い板があらわれいでて、板飴を割るように用いた。

 

○私は奈良県地方に「陀羅尼助」という漢方薬があることを知っていました。しかし、まだ飲んだことはありません。

 

○この項を読んで私はごく子供の頃、富山から来る「置き薬屋」さんを思い出しました。このころは腹痛が起きると「熊の胃」という置き薬を小さな塊を欠いて飲ませられました。

 

○熊の胃はとても苦く、本当の熊の胃と思い込んでいましたが、どうも「陀羅尼助」と同じように苦い漢方薬を固めた物だったのかなあと思います。