○雑誌「あまから」1950年から60年代に大阪で発行されたタウン誌です。食に関するグルメ雑誌のさきがけ。以前に取り上げましたので、2回目の続編になります。

 

○池田弥三郎1914-1982慶応大学理事(当時)文学部教授。国文学、民俗学で知られ、テレビ・ラジオによく出演。家は銀座の天麩羅屋。江戸っ子で有名。

 

●確かに昔はきたなかった。私の育った銀座などでも、裏通りは駄菓子屋があって、そこは、メンコだとか、凧だとかフイルムだとかを売っていたので、子どもの集合場所であった。そこで一銭のきんか糖やあめ玉などを買うと、おかみさんが,手づかみで数えながら袋に入れた。

 

○きんか糖は砂糖の練り物で鯛や人形の型に入れて、食紅などで色を付けた食べ物。

 

○池田の体験は昭和初期のものですが、私の幼児期の昭和30年代もほとんど同じでした。新潟市は「なんか屋」と唱え駄菓子の値段は5円か10円でした。

 

●その、きんか糖やあめ玉に,よく見るとゴミなどが付いている。そんなのを平気で売り、私たちも平気で口に入れた。もっとも私の家では「買い食い」というものをやかましくとめていたが、おとなしくて家に居がちだった兄と比べて、私はガキ大将で,明るいうちは表にいて、母に叱られ叱られしながら、駄菓子の買い食いをした。

 

●そんなころにくらべると、このごろのお菓子のきれいに衛生的になったことおどろくばかりである。まず手づかみで袋に入れることはないであろうし、つまらない安物であるはずの駄菓子が、みんな紙にくるまっている。おせんべいなどの衛生出世は大変なもので、一つ一つパラフィンに包んであるようになった。

 

○これは1961年の銀座に住む池田さんの認識であって、同じ時代の地方の駄菓子は衛生的にはまだまだ出世していませんでした。

 

●私は酒が好きなくせに甘いものに手を出す意地きたなしだが、だからあまからのおせんべいが好きで、ザラメのついているものをよく食べるのだが、あんな駄菓子というべきおせんべいまでが、生意気に紙に一つ一つくるまっている。衛生的にはちがいないが、どうも少しごたいそうである。

 

○池田の嘆息は今では常識です。グリコ森永事件以後は一つ一つがポリエチレンのフィルムで包まれるようになりました。

 

○もう一つは素手で扱うことが忌避されてきました。コロナのせいでポリエチレンの手袋をする機会が増えてきました。ホテルの泊まり客にも食事のバイキングは手袋とマスクを求めています。

 

○昔に比べて清潔を極端に求めるようになったと思います。さすがに寿司屋やラーメン屋で手袋をしているところは少ないようですが、おにぎり屋で手袋をして握っているのをテレビで見たときは「いやだな」と思いました。にぎりめしは手に塩をすり込んで握るので手からうまみが出るなどといっていましたが、手袋をして握っているのを見ると手袋から、化学物質が溶け出してくるのじゃないかと不安になります。

 

○東京農大の先生だった小泉さんは,漬け物の乳酸菌を研究した方でしたが、昔は虫下しを飲んだり、ギョウ虫検査をする程人体と微生物は共生していたが、近来の衛生意識の向上は確かに寄生虫を駆逐したけれども、逆にアトピーとか、アレルギーが増えてきて人間の抵抗力が弱くなったという趣旨の発言をしていました。

 

○昔の貧しい生活を知らないものにとっては現在の生活様式を基準に判断するほかはないのです。生活がつまらなくなってくるように思います。 

 

○TPPの関係だと思うのですが、秋田の漬け物「いぶりがっこ」を家で作り出荷する農家は納屋屋外でのつけ込みが厳しくなりそうで、これからは自家用以外の製造ははいろいろと設備が必要になるようす。で小さい農家は困っているというニュースを聞きました。

 

○困った世の中になっていきそうです。私は「ポリテイカルコレクトネス」というアメリカの取り組みも基本的に気に入りません。「メリークリスマス」が公式の場でいえなくて、「ハッピイホリディ」だとかリー将軍はインディアンを虐殺したから公の場から像を撤去するなど正気の沙汰とは思えません。

 

○日本は戦争に負けて軍関係の像をあらかた撤去しました。負けたからしかたありません。旧須田町前にあった広瀬中佐と杉の兵曹長の像は絵はがきでしか見たことはありませんが、力を合わせ任務を達成した象徴で、いまあっても不思議な物ではありません。例えばアメリカの民主党支持者の考え方に従えば、織田信長の像は撤去しなければなりません。なぜなら信長は比叡山を焼き討ちしたくさんの僧を虐殺したからです。

 

○そんな世の中にならないように昔の歴史事実を現代の生活に持ち込むことのない世の中を維持していきたいです。