○小笠原長生1867-1958 海軍中将(左)

○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)

○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。

○昭和4年 実業の日本社刊

○川村清雄 1852-1934

○初代新潟奉行 旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳川宗家より留学生として渡米。洋画の修行を続ける。アメリカからイタリアへ渡り写実的な技法を身につける。

 

○川村家文書の大半は遺族の好意で新潟市歴史博物館に寄贈されています。

 

○帰国後は印刷局へ入るが、上司キヨッソネと対立して退官。以来在野の画家として終始した。時の洋画主流外光派とは相容れず独自の道を行く、勝海舟の後援を得る。岸田劉生に影響を与える。旗本の自尊心から気が向かないと筆を執らず依頼されても何年もかかるということも珍しくなかった。

 

●それで雅邦先生はその経歴よりも、画風に興味を感ぜられた如く

「珍しい画風だ。非常に面白い」と繰り返し嘆賞せられた。

やがて夕刻になると川村画伯もその日の仕事が終わったので、別室に請じ、改めて雅邦先生に引き合わせた。

 

●そうして画談は追々佳境に入り、遂に欧米画家の日本画に対する批評に及んだ。これはもちろん先生(雅邦)は聞き手で川村画伯が話すのだが、例の婦人のようなやさしい声で、静かに説きすすむにも似ず、その内容は堂々たるもので、東洋美術のために万丈の気を吐いた。

 

●その中でも最も雅邦先生をして耳を傾けせしめたのは当時における伊国画家の大家某(名を逸した)の日本画に対する意見で、私の側聞した所は大体次のようなものだったと記憶する。

 

●「洋画に長所があると同様、日本画にも立派な長所があるから、日本の画家たる者は、たとえ洋画を学ぶにしても、自国画の長所や調子を会得して、それに立脚すべきである。思うに外観的な洋画は、写実中に理想を蓄えんとし、内省的な日本画は理想中の事物を生かさんとしている。

 

●色彩の観念に著しい相違があって、例えば白色の上に白色絵の具で描こうとする日本の思想のごときは西洋家の思いも浮かべぬところである。与(伊国大家)は確信する。日本画の精神や構図は近き将来において、欧米の画界に研究され採用され、以て新生面を開くに至るべきを、されば貴方(雅邦)のような日本青年画家は疾くここに着目して、自家の長所を隣人に横取りせられないようになさい。そうして此の方から洋画の長所をも融合せしめたなら本当の名画ができるでしょう」

 

○この話しは現代でも通じるものです。西洋画の技術を完全に身につけても、それはまねであり、オリジナルではないということです。日本人が生まれ育った風土や生活を生かせということです。

 

○伊国老大家が川村に語ったのは明治初年のことでしょう。当時日本の浮世絵が欧州に伝えられ、フランスの画家に日本画の構図が取り入れられました。

 

○橋本雅邦もフェノロサから日本画の特異性を指摘され、日本画に西洋的な技法を取り入れていましたから、川村の話を興味深く聞いたことでしょう。

○明治後期 川村清雄像