○昭和38年朝日新聞刊 6巻にわたる大部の著作です。昭和史研究の基本研究の一つです。これと「西園寺公と政局」「昭和史の天皇」は、いずれも小説ではなく、学術的なものなのですが、複雑な昭和史の全体像がなんとなく見えてきます。

○高木惣吉海軍少将1893-1979 海兵43期

○山本五十六海軍中将(当時)1884-1943 海兵32期

 

●真珠湾やミッドウエー作戦は余りに投機的すぎるという批判をよく耳にしますが、戦闘に投機的要素のないものはありません。それに何十年という歳月にわたる演習や図上演習を冷静に検討したうえ、彼我の国力を考えた結果で、要は計算された投機かどうかが問題です。

 

○本来山本は連合艦隊の長官で、出先の作戦部隊の長です。海軍軍令部の立てた作戦命令にもとづいて行動します。山本を統制できなかった軍令部に問題があります。

 

○軍令部はこの時、大艦巨砲の大和、武蔵による艦隊決戦を研究立案しています。山本は側近グループにハワイ攻略を研究させ、軍令部総長の永野修身に山本案を提示し、無理矢理承知させます。

 

○長年研究してきた艦隊決戦は無視されます。軍令部関係者は永野に抗議しますが、結局山本案が通ります。永野は山本を解任しても軍令部の研究を優先する決断ができませんでした。

 

○艦隊決戦派の将校は戦後の回想で、世界が空母を中心にした航空戦闘に気づいていないのだから、艦隊決戦でアメリカの戦力を徐々に減じて艦隊の勝負に結びつければ勝機があったといっています。

 

○山本の作戦は一時的に成功したが、空母と航空機に気づいたアメリカは両者の生産を増大させて、日本を劣勢に立たせたというようなことを話しています。

 

○もっとも、山本が真珠湾を奇襲しなければ、原爆は落ちていなかったのかも知れません。

 

●このように常人のど肝を抜くような決断をする一方では、追いかける記者には極めて寛大で門戸開放主義でした。どんなに忙しいときでも退庁前の記者会見をいやがった例がないし、官邸の夜半に押しかける心臓組(無神経な記者)に対しても、自分で玄関を開けて迎えました。

 

●不死身の次官にもたまには睡眠不足があったとみえ、そういうときには誰にも分からぬよう、大臣官邸の二階の寝椅子に雲隠れすることもありました。

 

●次官当時、郷里長岡にある家兄の病床を見舞うため、毎週土曜日の午後11時すぎ上野発の汽車で帰省し、日曜日の午後11すぎの上り夜行で帰省したものですが、すでに54・5才に達した者の体力としても驚くべきものというべきでしょう。

 

●酒を呑まず、煙草も日華事変以来フッツリと止めてしまい、戦死まで禁煙を続けたのです。予算省議で軍令部や航空本部の鼻息の荒い部・局長を頭から叱りつけた山本中将も印象的でしたが、育て上げた白相(しらそう)、南郷、間瀬などの名パイロットの戦死に、はた目もはばからず泣き崩れた人間山本への追慕はおそらく永久に消えないことでしょう。     おわり

 

★昨日三遊亭圓丈師匠が亡くなりました。私には一つの思い出があります。30年くらい前新宿の末廣亭で初めて圓丈の噺を聞きました。狭い寄席の中が大爆笑。胸にミッキーマウスの紋付きを着て、わたしは、この人は林家三平に並ぶ爆笑王になると直感しました。

 

★圓丈のことをそれから調べました。なんと、名人圓生の弟子でした。師匠の芸風にはにつかない新作落語の人です。前座名はぬっとしているから、圓生が「ぬう生」とつけます。師匠の芸風を飛び越えて自分独自のものを作った優れものです。圓丈の兄弟子の「川柳川柳(かわやなぎ せんりゅう)」もガーコン落語で師匠を超えた変人。圓生一門は多才な門下を産みました。圓丈の弟子に新潟出身の三遊亭白鳥がいます。

 

★彼の書いた本「御乱心」は圓生と小さんの戦いを書いたドキュメンタリーです。圓生の反乱が、円楽の裏切りによって霧消したことが書かれています。圓生夫人は「圓生の名は円楽には継がせない」と話し、以来現在まで止め名となっています。

 

★数年前に現円楽が圓生を継ぐと出たとき、円窓や圓丈が反対したのは圓生の直弟子の我々が、円楽一門に師匠の名を継がせたくないということから来ています。円楽一門がいまだに落語協会に復帰しないのはこのような昔の話しが絡まっているものとおもいます。おしい人を亡くしました。御冥福をお祈りします。