●平成3年主婦の友社刊 秩父宮勢津子著

●秩父宮勢津子妃殿下1909-1995

○祖父 松平容保1836-1893

 

●祖父容保は明治5年に赦免されましたが、再び世に出ることはかたくなに固辞したといいます。明治9年11月には、明治天皇の特別のおぼしめしをもって、従五位に叙せられ、累進して正三位となりましたが、明治天皇様に対し奉てまってはひたすら恐懼(きょうく)するのみであっても、「勝てば官軍」の立場にある側に対しては、無念の思いを心に深く持ちつづけていたことでしょう。

 

○会津藩は国持ち大名格なので、官位は四位からはじまり、幕末には中将に叙せられています。明治となり、懲罰で五位に下げられてしまいます。五位は小規模の大名や旗本格になります。後に正三位とあるのは容保には謀反の心なく恭順の誠を示したからでしょう。幕末の官位を越えたことになります。

●新潟市西大畑の新潟大神宮に残る「会津藩士の慰霊碑」です。

えちご 豆本 新潟 坂  13  ⑪神宮様の坂 南浜通り その1に載せたものを採録します。

 

「招魂社(護国神社)は官軍の死者を弔うために建てられています。会津藩は賊軍なの招魂社から除外されています。容保は死者を弔うために越後に何か残したかったんだと思います。私の推測ですが、容保は明治になってから日光東照宮の宮司になっていますから、新潟大神宮の教導職を通して働きかけたのではないかと思います。薩長の政府や県の了解を得るために相当の苦労をされたと思います。」

 

●招魂社(後靖国神社・護国神社)は国の為に落命した方々をお祭りしています。戊辰戦争では会津や長岡などの賊軍はまつられていません。会津戦争以前にも越後に領地や飛び地を持つ会津軍は新政府軍と戦い多くの命を失っています。

 

●最近、靖国神社に賊軍だった人々も合祀しようという動きがあったとネットで読みました。会津松平家はその事に対して「そっとしておいてほしい」と対応されたようです。百五十年たっても、薩長とは和解できないという強い意志を感じました。