●スポニチのウエブに金田正泰の当時の記事がありましたので掲載します。当時の担当記者の記録ですので、より信憑性があります。

          ○当時の監督金田正泰

○20日、先発は江夏だった。メンバー表交換に出たヘッドコーチ・岡本伊三美がベンチに引き返し、金田に「江夏なんですか?」と確認していた。

 

●ここは前に書きました。岡本は残り2試合の投手起用を南海の鶴岡さんに意見を聞きました。「中日戦は上田を先発にして、リードしたら優勝投手は江夏に投げさせろ、もし中日戦に負ければ、最終の巨人戦の先発は江夏にさせろ」といい、江夏に大切な役目をさせることがチームづくりには必要と指示します。

 

●岡本はヘッドコーチとして金田に鶴岡の考えを伝え、金田の理解を得ていたと考えた。岡本はメンバー表交換を金田の代理で行い「ピッチャー江夏」と主審が読み上げるのを聞いて驚き、中断してもらいベンチをのぞいたが、金田はいなかった。

これは岡本のYoutubeでの証言です。こちらが正しいのではないかと思います。

○試合は巨人に勝たせたくない中日先発の星野仙一があきれるほど阪神は打てなかった。金田の用兵にはまだ疑問がある。2―3の7回表2死、江夏の代打に同年限りで解雇となるブルペン捕手の藤田訓を送った。裏には対中日0勝3敗の谷村智博を告げ、点差が広がった。2―4で敗れた。

●ここも新しい情報です。金田は試合をあきらめたと思われます。この時ははっきりと言えませんが、「ヒゲ辻」と「ダンプ辻」がそろっていたと思います。「藤田」という方は顔も浮かびません。藤田はこの年をもって退団しています。


○双方シーズン最終戦で勝った方が優勝という大一番の甲子園での巨人戦。21日は雨で流れ、22日に先発した上田は2回ともたなかった。0―9とあっけない惨敗だった。

○悪夢の結末に暴徒化した観衆が巨人ベンチを襲い、球場を取り巻いた。鎮めるため、金田は球場正面の鉄扉を開け、群衆の前に立った。「われわれは全力を尽くして戦ったのですが皆さんの期待に応えられず、申し訳なく……」謝罪した。

 

●金田の謝罪があったことを知りました。悪くいえば予定通り優勝を逃し、たんたんと戦後処理をしているのです。

 

○シーズン終了後、一度は辞意を伝え、慰留された金田は監督続投の条件に「江夏をトレードに出してくれ」と訴えた。江夏もまた「あの人の下ではやりたくない」と言った。球団社長・戸沢一隆らがとりなした。

 

●球団社長は「戸沢白雲齋」と異名をとった、とらえどころのない策士。

 

●金田は最終試合まで優勝を争い、続投は既定路線だったでしょう。球団から見れば、江夏はシーズン中から反金田の選手と結託して鈴木や権藤の事件を起こし、球団の指示に叛いたのですから当然「江夏トレード」は仕組まれていたのです。こんなことは知りませんから当時の私はビックリしてしまいました。江夏はタイガースでは選手生活を全うする運命ではなかったのです。江夏は昭和51年オフ、トレードされます。

 

●先日見たYoutube川藤部屋では昭和49年入団の佐野仙好さんと川藤が金田正泰の思い出話をしていました。

 

佐野 ランナーをバントで送るのを失敗し、2ストライクからヒットを打ったら、試合後バントもようできんのかとしかられ、翌日から2軍落ちしました。

 

川藤 わしもランナーが出ているとき自分の判断で送りバントしたら試合後勝手なことをするなとしかられ、翌日から2軍落ちした。まったくわけの分からん人やった。

 

●金田正泰はベンチの信頼を失っていたのです。

 

●ヤクルトを優勝に導いた広岡達郎は「損しなければいい」という親会社の意識を変えさせたといいます。残念ながら阪神タイガースは目先の利害関係や親会社の人間関係が勝利を妨げているように思います。阪神タイガースには広岡の様な人は出てきませんでした。田淵や掛布の退団にも、江川と小林のトレードにも、このようなわけの分からん理由が付いていたのでしょう。  おわり