○この写真を昨年古書店で見つけた時に、私の長年の謎がようやく解けました。

 

○私の古い記憶に屋台のような家の続く景色、幼稚園の頃の記憶です。以来時々思い浮かべては「あれは、どのあたりにあったのだろう。」と自問することがありました。私はそれは、本町あたりか、古町の下のほうかと思っていたのですが、この写真で西堀にあったことがはっきりとしたわけです。

○屋台が柾谷小路の辺りまで続いています。新潟の人気ラーメン店「三吉屋」や、たれカツ丼の「とんかつ太郎」は屋台店から商売を始めたというのですから、このような形で戦前は営業していたのだと思います。

○KOBAYASHIとあるのは当時の小林デパートです。新潟のデパートはこの小林デパートと大和デパートが二大巨頭でした。小林デパートは後に三越デパートとなり、現在は三越が撤退して空きビルです。大和デパートも撤退して建物も消滅しました。

 

○デパートの屋上に「たのしい どうぶつ」の看板が見えます。当時のデパートはアミューズメント施設を兼ねていました。屋上にはいくつかの小動物が飼育されていました。私は学校の写生会でこの屋上で絵を描いたことがあります。

 

○デパートの左手にある建物は「小林劇場」です。洋画の3本立ての二番館でした。デパートの入り口には「グランド劇場」という封切館がありました。映画は初公開のものをあつかう封切館と以前公開された作品を上映するニ番館がありました。

 

○デパートの向こうにある、縞模様の建物は旧新潟市役所です。昔のロボットの顔のような建物でした。現在は商業ビルが建っています。

 

○この屋台の向こうには、西堀が流れています。私のはっきりとした記憶では昭和38年には工事が始まって、埋め立てられていました。その時の記憶では屋台の小屋はもうありませんでした。

 

○翌昭和39年には新潟国体が開催されて,新潟の町に昭和天皇をお迎えする大行事があり、新潟の町をきれいに変身しようとしていたようです。新潟国体が終わったとたんに「新潟地震」が到来し、10月には「東京オリンピック」が東京で開催されるという、当時の新潟市民にとっては忘れられない年です。

○屋台の前に立つ親子。私はこの女の子よりも2才くらい下だろうかと思います。うっすらと雪が見えます。冬の頃でしょう。

 

○この写真で屋台は昭和37年まで存在したことが分かりました。まるでこの後ろに西堀が隠れているとは思いもよらない写真です。この当時は古町通りにもいくつか、露天があったように思います。「うなぎつり」屋をうっすらと記憶しています。

 

○随筆家の吉田健一は40年代の随筆で新潟市がこのような堀を埋め立てて交通の便をよくしたことを賞賛しています。この後昭和40年代には公害時代が来ますので、西堀や東堀などの新潟の堀はいずれ暗渠となる運命だったと思います。

 

○私はこれらの屋台や堀がもし現在も残されていたらどうだっただろうと思うことがあります。学生の頃東京で見た後楽園の堀は汚れていてその中を、鯉が泳いでいましたが、平成の頃にはきれいな水となり、多摩川にも鮎がもどったといいます。

 

○新潟に堀が生き延びていたら,科学技術できれいな堀となり、屋台のいくつかが残っていれば、博多のような観光資源となったことでしょう。この界隈は現在では、交通量も減り地下にある駐車場はがら空きです。昔は周辺の人々はバスに乗って古町へ集まってくる。古町へ行けば何でもそろっているという時代でした。当時を思えば夢のような現在の姿です。

 

●久しぶりに投稿しました。8月に体調を悪くして入院手術をしました。かなり体力を消耗し弱ってしまいましたので、ブログを休んでいました。今日から再開致します。