○中央公論社刊1990年復刊 原本 武侠世界社大正元年刊

○岡本柳之助 嘉永五年生まれ。和歌山藩士。津田出に引き立てられ、新政府の軍人となる。陸奥宗光と同世代の人。竹橋事件に連座し官職を退く。浪人となり、アジア主義・国権主義に傾注し朝鮮や支那の封建制打倒の運動に参加した。明治四十五年上海で客死した。

 

●鳥尾小弥太と西南の役の回顧 ③無視される伊藤博文

 

●この時、京都行在所から参議伊藤博文が鳥尾の宿舎にやってきた。伊藤は非常に戦地の模様を心配して、鳥尾に向かって

「まだ熊本へ連絡が来ないが、一体どういう戦略で、どうする見込みか聞きたい」というと、鳥尾は「まあいい」といって戦略を語らない。

 

●「まあいいでは分からん、如何様する意見か」念を押すと鳥尾は

「俺は大命を奉じて出征の計画を立てているのである。俺が不安心なら俺をやめさせて貴公代わって遣れ。今君に戦争の勝敗を話すの必要はない」というと、伊藤は大いに立腹して「勝手にしろ」そのままぷいと席を立って帰ってしまった。

 

○伊藤は参議でありながら、鳥尾や岡本に相手にされていません。この時には木戸も存命でした。伊藤は小者の出で戊辰の戦闘にも大して加わっていなかったので、鳥尾からは文官と区別されて、軍の機密を教えることはできないと無視されたのだと思います。

 

○勝は西郷、大久保、木戸の死後は、伊藤や井上馨を才子と呼んで少し軽蔑していました。大久保と勝は明治30年頃には帝国議会も開設できよう。民力を付けなければならぬと、考えていたようです。しかし、伊藤は明治23年帝国議会を開きます、勝はこれを才子の仕事と厳しく批判しています。

 

○井上馨についても斬り合いで顔に刀傷があるものを自慢し、明治になり、勲一等勲章を賜ります。山岡の所へ井上が勲二等勲章を持参し「陛下からあなたに賜りました」と話します。山岡はもとより自分から功を吹聴する人ではありませんから、固く固辞します。

 

○山岡は、「あなたは勲一等でわたしが、勲二等というのはどういう訳ですか」と問うと井上は「私は王事に奔走し、この通り刀傷をうけております」といいます。

 

○山岡はひどく怒って「あんたの顔の傷は私事のものではないか、私や西郷が江戸開城について交渉していた時、あんたはどこにいたのだ」と、もちろん山岡は勲一等をよこせといってごねているのではなく、些末のことで差を付けるのが気に入らないのです。

 

○井上は驚き「そのようなことがあったのですか、詳しく伺いたい」と山岡に答えます。

 

○たとえていえば岡本、鳥尾、勝、山岡、西郷、大久保などは戊辰戦争前からの活動家。これに対して伊藤、井上は戦中派といっていいのだと思います。お前等戦中派に何が分かるという蔑視があったと思います。

 

○ついでながらに、伊藤によって出世した伊東巳代治などは戦後派といっていいでしょう。明治の文献などでは伊東巳代治はひどい嫌われようで「猿が冠を被っているような者」と酷評されています。

 

○伊藤もけっこう嫌われていたんだなというのが結論です。西南戦争を境に西郷・木戸・大久保の革命第一世代が消え、戦中派伊藤の世の中になっていきます。