○本書は戊辰戦争六十年を期して出版されたものと思います。新潟市の幕末明治の古老の聞書としては唯一のものと思います。

○編者の鏡淵九六郎1869-1940です。医師の傍ら談話収集に努めました。本書は少数出版であったために、古書店では高値となり、入手困難になったそうです。

 

○のち平成三年に復刻されました。この稿は復刻本を基にしています。復刻に当たっては医師の蒲原宏氏が努力されています。蒲原氏は郷土史家で日本医学史を研究されました。私は講演を拝聴したことがあります。

○この中から戊辰戦争の聞書をいくつか紹介することにします。

●国定忠治新潟に逗留② 古町三 池上隆太郎翁 六七才

 

●文久三年のことであった。呉服屋の番頭謙助さんが、江戸から呉服物を仕入れずにもの好きにも役者を仕入れることにしてきたが、幸い抱一門下の二男鈴木誠一先生が、新潟滞在の時で、先生は河原崎権十郎と親しかったので、大いに力を入れ世話をしてもらうことになった。白崎屋は当時新潟第一の呉服店で、芸者などは手のものだから一同乗り気になった。

 

○新潟港第一の呉服店ですから、江戸の大店とのつながりから、江戸歌舞伎を呼んでみようということになったのだろうと思います。

 

●新潟へ来たときには河原崎権十郎だか、後に九代目市川團十郎となった人である。それは丁度夏の暑いときであった。まず初め往生院で七日の興業、ついで白山祭りに七日打ったが、外題は石橋と切られ与三郎で、関の戸の所作には引き抜きが評判で、新潟では初めて見るのだから、三日前から桟敷を注文せねば断られる盛況であった。

 

●一行は権十郎を始め坂東亀蔵、彦蔵、女形に国太郎などがそのおもなるものであった。私の家は西堀上角から七軒目で、建元と近しいため権十郎が来て休息した。そのころ坂内小路の片原にある、おやき屋の名物飛び団子を非常に悦んで、江戸にもこんな結構な物はないとほめそやすので、休憩ごとに私の家で新潟自慢にこれを出した。

 

○飛び団子は現存していません。

 

●今の社務所のところに茶屋が掛かって、芝居見物の送り迎えをしたり、繁盛したものであった。権十郎の宿は古町の池上で毎日美々しく飾った駕籠に乗って白山の芝居小屋へ行き帰りするので見物は黒山の如くに雑踏した。

 

●編者註

池上は当時目明かしで、赤房の十手を預かっている顔役であったから上等の興業はこの家を宿にしたものである。

 

○九代目市川團十郎1838-1903 この時は初代河原崎権十郎。明治以降の団十郎では九代目と呼ばれ名高い。

 

○新潟は江戸歌舞伎を呼ぶだけの財力がありました。新潟の芸妓に伝承される「市山流」は大阪や江戸歌舞伎とも関係があります。

 

○歌舞伎の演目の中にたしか「新潟浜茶屋の場」というのがあり、何年か前にテレビで放映されました。その中に出て来る「行形屋いきなりや」は現存しています。