○本書は戊辰戦争六十年を期して出版されたものと思います。新潟市の幕末明治の古老の聞書としては唯一のものと思います。
○編者の鏡淵九六郎1869-1940です。医師の傍ら談話収集に努めました。本書は少数出版であったために、古書店では高値となり、入手困難になったそうです。
○のち平成三年に復刻されました。この稿は復刻本を基にしています。復刻に当たっては医師の蒲原宏氏が努力されています。蒲原氏は郷土史家で日本医学史を研究されました。私は講演を拝聴したことがあります。
○この中から戊辰戦争の聞書をいくつか紹介することにします。
●国定忠治新潟に逗留 広木松之助②
古町三 池上隆太郎翁 六十七才
●長岡から戻ったといわれる忠治は、私の家に一ヶ月余り逗留していたのは事実で、親父も秘していたが、明治二十一年六月伜の不流(ふりゅう)三左衛門が、芝居の世話役となってきたとき、私方へも挨拶に参り、私に向かっても先年父忠治がご厄介になったそうで、深く御礼申し上げますなどといわれた。
○忠治については不勉強でよく分からないので、ネットで調べて見ました。忠治の伜に不流という人は出てきません。不流組というテキヤさんの古い組の初代が三左衛門であると出てきました。親子の盃を交わしていたのかも知れません。
○テキヤさんや任侠の人達は芝居や相撲の勧進元になることが多く、三左衛門もそのために新潟へ来たようです。当時の新潟は大都会で芝居の興業もたくさんありました。
○勧進元というのは今では死語ですが、芝居の一座や相撲の巡業に金を払い興行させる者をいいます。例えば勧進元が百両で市座の興行権を買い、客の入りがよく、入りが三百両揚がれば勧進元は二百両近く儲けますし、百両以下ならば勧進元に損が出ます。
○昭和のころまでは、勧進元がいて美空ひばりや鶴田浩二などのスターの興業にはこうした勧進元が巡業の準備をしました。
●この不流三左衛門は面長で身の丈高く、骨太でたくましく目など光って、しかも座談が大変うまい男であつて、煙草入れの金具が一見して親分でなければ持たなぬ鎖つきの大きなものであった。
●そのまた伜の京十郎(忠治の孫)は優しい好男子で、役者となってきたが、私と同年配ぐらいに思った。
○これも本当かなと思うような話しです。忠治が新潟へ来たことはこの本以外に読んだことはありません。