○木村東介1901-1992 画商、長谷川利明や宮島詠士の作品を世に伝える。山形県米沢市生まれ。実弟は木村武雄。衆議院議員であった。田中角栄派の立ち上げで号令を掛けて派内をまとめ派内では「木村元帥」と尊称されました。
○私は宮島詠士の父誠一郎と勝海舟との関係から、宮島詠士の作品を知りました。宮島詠士の鑑定は木村東介が所定鑑定人のような信用を得ていることが分かりました。以来関心を持っています。この本も古書店で木村東介の名を見つけ買ったものです。
○弟の武雄は田中角栄の内閣の頃テレビで映っているのを見ました。後年武雄が東方会の中野正剛に師事し、大政翼賛会選挙では非推薦で戦い当選、反東条の立場を貫きます。同郷の石原莞爾の国民運動にも参加した国士的な人物です。当然兄の東介も反東条で弾圧を受けています。兄東介にも強い影響を与えたはずです。
○昭和十八年に八十九才の老婆が米沢の肉屋で語った戊辰戦争の頃の思いで話しを、木村東介が疎開先の話しとして随筆に書いています。
●西郷の来た日 ⑤困難の中を生きるということ
●「お婆ちゃん、西郷隆盛の話だっけ」
「ほんだ、ほんだ、西郷がいつの間にか牛肉にかわったんだ。んで明治十年に西郷が死ぬとなし。西郷の家来達がよし、いつ謀反を起こすかもわかわかんねえというので、大久保利通というひとがきてなし、薩摩に一番恨みがあるのは会津と米沢だべというので、鹿児島を治めんのに邏卒といってなし、今で言えば巡査様だし、その巡査様を米沢に募集に来てなし。
○ここのところは老婆の勘違いではないかと思います。西南戦争の初期に西郷が生存中に邏卒の募集に来たのではないかと思います。不明なところです。
○明治初期の帝国陸軍は外国からの国防よりは、国内の治安維持のために機能しました。警察と陸軍が一体になっていた時期があります。警視総監の川路利良は同時に陸軍中将を兼務しています。邏卒も下士官を兼務し、戦闘に参加しています。
●米沢の侍達は扶持をはなれたもんで、屋根葺きや壁屋の手伝いしていたのが、急に官員様に出世したつもりして、南のとっぱずれの鹿児島まで何十人と邏卒になっていったよし。ほんだけんどもよし、人の憾みなんてそんなに長続きするもんでなえし、鹿児島サ敵討ちに昔の憾みはらしにいったはずの米沢の侍がよし、いつの間にか向こうの家サ婿に入ったり養子になったり、嫁もらったり、恨みなんて跡形もなく消えてしまってよし。ほんなら何のために南のとっぱずれまでわざわざ出かけていったのか、さっぱりわかんなくなったべし、長い年月がたつと、憎しみとか悲しみとか、みんな消えてしまってよほど自分の身に応えた者でないとあとかたもなく薄らいでいくもんでねえべか?」
○一般の理解では戊辰戦争の恨みを雪ぐために動員されたと理解されていますが、それぞれの個人レベルでは生きるためにさまざまな苦しみのあったことが、戦前まで伝承されていたことが分かります。
●「今だって鬼畜米英だなんて、戦争してっけんどもよし、戦争終われば、米国や英国さ女子達が嫁に行くのも出てくんべし、また、向こうからもらうのもいんべしョう。戦争なんて上の人達がやっているようなもんでなし、こんな戦争早く終わればいいなよし」
○ここでいう戦争は大東亜戦争です。お婆さんは江戸の町人として生きた人ですから、戦争は御上がやるもので、私たちには関係ないといいたかったのではないでしょうか。日清、日露の戦争をへて、国民国家に変容した日本を冷めた目で見ているように感じました。
●お婆さんの話を聞いてから丸一年と十ヵ月の翌々年八月十五日終戦の詔勅が下って神国日本が、神意に基づいて惨敗降伏した。降るアメリカに袖はぬらさじと、紅涙をしぼって詔勅のラジオの前に泣き伏した大和撫子たちは、まもなく、東京駅や羽田空港で、髪を赤く染め、目の縁を青くしながら、手を振りバイバイなんて別れを惜しんだ。
●純正日本変貌の序の口である。それは肉屋のお婆さんの話を聞いてから四年目の日本の情景である。
○国士木村東介の歎きが伝わってきます。お婆さんの話を裏付けるような事態です。しかし、お婆さんを代表とする庶民は日々の暮らしの中で変わり身を見せ、戦後の復興を成し遂げたのです。「西郷の来た日」はこれで終わります。


