石井研堂 1865-1943

〇明治の雑誌編集者「小国民」は明治20年代の少年向け人気雑誌。明治文化研究会を設立し明治文化全集を出版する。

 

〇石井は明治が終わり、明治の記憶が薄れないうちにと、資料の収集を始め、彼の死後1944年に「明治事物起源」という明治の事だけを集めた辞典を出版しました。

 

〇昭和59年日本評論社より復刻された1500ページの中からおもしろいものを紹介していきます。

〇分かりにくい旧仮名遣いの一部、候文などを現代口語に直しました。

 

●石井研堂 明治事物起源 教育学術部 イーストレーキー博士

 

●イーストレーキー博士は明治の文献にたびたび出てくる人です。私は英語教育の人とだけ思っていたのですが、石井研堂の記事で違う面が出ていました。

〇当時の大学や専門学校の入試では出題程度によく「イーストレーキやスイントンのリーダー」の名前が出ていました。それから当時の文化人の集まりに名前が出ており記憶しました。

 

●ウイリアム・シー・イーストレーキは米国人なり、万延元年、初めて横浜来朝して、西洋歯科医術を輸入す。明治二年日本を去りて明治十四年来朝後はその女とともに、英語を教授し、同二十年東京にて没せり。昭和十一年二月二十二日青山墓地に於いて、五十年忌建碑除幕式を行えり。

〇左がウイリアム・シー・イーストレーキ博士、日本初の開業歯科医師だそうです。後妻の夫人は日本人です。

 

●二世ウオーリントン・イストレーキ氏は、三歳の時父に連れられて来朝、博言博士、英語教授として有名なり。棚橋一郎共編英和字典広く行われ明治三十八年東京にて没す。

 

〇写真右が二世ウオーリントン・イストレーキ氏です。

 

●三世ローランド・イーストレーキは東大仏法科を卒業、各地の中等学校教師となり、後慶応大学予科教授となる。全然日本人同様にて、昭和十七年六月敵国人として帰化を願い出る。三世引き続き英語教育に尽くせるは珍し。

 

〇イーストレーキ氏が三人いたことに、まず驚きました。

 

〇私の明治本で認識したイーストレーキ氏は一世か二世か判別できないことが分かりました。どちらにしても日本の洋化教育に尽くされたのはありがたいことです。

 

〇三世のイーストレーキ氏は日本人と変わりないとありますから、二世の夫人が日本人だったかもしれません。

 

〇三世に渉って日本に留まっていただいたことに感謝します。三世の方は戦中・戦後も安穏に過ごされたのか気にかかりました。