石井研堂 1865-1943

〇明治の雑誌編集者「小国民」は明治20年代の少年向け人気雑誌。明治文化研究会を設立し明治文化全集を出版する。

 

〇石井は明治が終わり、明治の記憶が薄れないうちにと、資料の収集を始め、彼の死後1944年に「明治事物起源」という明治の事だけを集めた辞典を出版しました。

 

〇昭和59年日本評論社より復刻された1500ページの中からおもしろいものを紹介していきます。

〇分かりにくい旧仮名遣いの一部、候文などを現代口語に直しました。

 

●石井研堂 明治事物起源 教育学術部 学校校旗の始まり

 

●第一高等学校の校旗「護国旗」は明治二十二年憲法発布の年に、制定せしものにて、当時全国滔々たる洋化思想にかぶれる中に、わが一高ばかり、その時流に巻き込まれず護国の精神に徹するという精神を現せしものなり。

 

●この時代には、また全国いずれの学校にも、校旗無くこれがその先駆けなり。そして、これは、かしこくも明治大帝の御会釈を賜りしという栄光のゆかりをもち、他の学校の校旗と違い、わが一高にては、軍紀さながらの取り扱いをなし、中々外へは持ち出さずという。

 

〇校旗の始まりはかなり遅いですね。私は陸軍の連隊旗から全国に広がったのかと思っていました。一高の護国旗はネットの検索に寄れば現存し、東京大学で保管されているそうです。

〇東京大学蔵の第一高等学校「護国旗」おそらくこれは何代目か後の物と思います。

〇明治天皇は、どのような場面で一高の護国旗に会釈をされたのか知りたいですね。これによって護国旗に魂が入ったと当時の一高生は思ったことでしょう

 

〇先日古書店で「向陵誌 第一高等学校応援団史」を立ち読みしました。そこには「護国旗」について記載がありました。明治二十二年憲法発布の式典当日、第一高等学校の生徒千名が天皇の馬車を奉送し、明治天皇は馬車より護国旗と生徒に対して会釈を賜ったようです。おそらく第一高等学校の生徒が奉送に集まっていることを宮内官などから聞いて知っていたものと思います。また護国旗の制定については文部大臣の森有礼が関わったことも書いてありました。(令和元年12月2日加筆)