〇書き慣れた文字から武家か教養のある人物のように思います。これは十年前くらいに骨董市で買った物です。残念ながら前半の五丁は失われています。雁皮紙のような薄い紙に書かれていて、所々に佐渡を廻る絵がかかれています。これからしばらく、この文書を紹介します。

〇明治になって天保時代の佐渡巡りを回想して書いたものだと思います。どのような方か分かりません。分かる方がいらっしゃったらご教示ください。()註を入れています。一部分かりやすい言葉に直しました。

 

●写本 江戸末期 佐渡国紀行文 明治二年 鳴鶴堂正猷 誌  ④順徳上皇御製

 

●また、桜の古木あり。周りは石をもって石畳七間四方ばかりの土手なり。めぐりには松杉陰をなして日をへだて、地上に青苔を生じ、藪茂り、囲いの門戸破れ、登拝の人跡絶え梢に服秋風の声のみ高く真に寂々寥々(せきせきりょうりよう さびしく荒れ果てた様)たり。別当真輪寺よりここまで人家なく山路なり。

 

〇ここは少し分かりにくいのですが、前に拝したのは御陵を遠くから拝したのではないかと思います。ここでは近くまで参道を登ったのかもしれません。不明です。幕府は御陵の管理に力を入れていなかったのか、荒れ果てている様が分かります。

 

●嗚呼、一天万乗の君(天皇)たるも逆賊のために左遷漂泊の御身となり給い、今太平の世に至り(三十三年前のことなり 明治二年から数えて)ても、廟堂さへなく印の松のみ高く茂り、詣拝の人だになきは哀れなる事なりと落涙袖を濡らして拝しぬ。

 

〇この筆者はおそらく勤皇党でありましょう。この当時から十年ほど後には尊皇攘夷の風が吹き、京都の御陵を拝すにも、幕府の密偵の目をくらましてこっそりと拝したと「石黒 忠悳 懐旧九十年」に詳しく出ています。

 

●御製

・思いきや雲の上おば よそに見て 真野の入り江に くち果はてんとは

(都を遠く離れて、佐渡の真野の入り江で生涯を終わろうとは思いもしなかった。)

 

・ながらへて たとへ末に帰るとも 憂いはこの世の 都なりけり

(ここで生きながらえて、最期は帰ることができても 憂いは今の世の都のことである。)

 

●順徳院皇居の御製

・なけばきく 聞かば都の恋しきに この里すぎよ 山ほととぎす

(ほととぎすの鳴き声を聞けば、都を恋しく思ってしまう、だから山ほととぎすよこの里を越えて行け) 

 

●この御製に感じけるに、昔はこの村に、ほととぎすが鳴かないという言い伝えがあった。

 

●その後日野中納言資朝公の歌にて、「今は子規啼」と言えり

・聞く人も 今はなきよそ 子規(ほととぎす)たれを忍びて 通るこの里

(聞く人も いないのだぞ ほととぎす 誰を忍んでこの里を通るのだ)

 

〇日野資朝1290-1332 後醍醐天皇の側近 元弘の変で破れ佐渡に流罪処刑された。

 

●順徳院の御扇、御脇差し刀、御鉤花生け、という物を本間某所持せしよし、御配流の時、御差し刀御船より、取り落とさせ給いしか、

・つかの間も 身をはなさしと思いしが、波の底にも さや思うらん

(つかの間も 身からはなさんと思っていたのに 波の底の海も そう思っていたのだろう。)

と詠じ給いしかは、この差し刀が海底より浮かび上がってきたということである。

 

〇これは、新田義貞に対応するような刀の伝説が伝えられていたのだと思います。

 

●九条殿へ進めさせたまう御製に 萱が軒端 とあるのを思いだして

・荒れ果てし 萱が軒端の俤(おもかげ)も 月に残れる真野の秋風

(荒れ果ててしまった 萱の小屋のおもかげも 秋風の吹く真野の月下に見えるようだ。)

 

・雲の上 波の外まで流れ来て 君(順徳法王)の御かげや有り明けの月 

(雲の上や波の外までに 帝のお力が現れて 明け方の月の美しいことだ。)

・二首とも 宗礼

 

〇最後の宗礼は、鳴鶴堂正猷のことと思います。いくつも和歌が出てきました。()の意味は私の解釈です。素人なのでおかしいところがありましたらご勘弁ください。