○前島密 1835-1919 郵便制度の父と呼ばれました。明治初期の外国郵便の交換制度のなかった頃の実情を述べています。

 

●郵便創業談 昭和11年発行 逓信協会刊より

 

●明治四年に私が欧羅巴から帰ると直ぐに、横浜にある英米仏の郵便局を訪問して、その局長に面会し、その各国から我が国人に宛てて送ってきた郵便物は、どうゆう手続きで取り扱っているのかと聞いたところが、その局長はいずれも、はなはだ面白くないと言う顔つきで、通信のない国に住んでいる人民は気の毒ながら通信の便がないのであるから、居留地外なれば無論横浜市内に住んでいる者にも全く配達しない。

 

○この時まで、前島は不完全ながら民間の飛脚制度を改め、官制の郵便制度や法制を整えようとしていた。ヨーロッパの制度を実見してきた前島は外国からの来信について疑問を持ちます。

 

○横浜の居留地は治外法権のような地で郵便局は列強の国が置いていました。局長が面白くない顔をしたのは、野蛮人の日本人に郵便のことが分かるのかといった傲慢な態度の表れでしょう。もっとも数年前まで尊皇攘夷で異人を切り捨てていたのですから、しょうがないことです。

 

●それのみならず政府並びに諸官衙に宛てた郵便物でも、別段の手数をしたものでなければ、これを配達しない。配達したくてもその道がなく、その義務もないとの答えだ。

 

●よって私は更に、果たしてしからば日本人宛郵便物の配達しない分は残らず返戻信書の例によって本国に送り返すかと問うたところが、然り外に道はないと答えて箱の中から数十通の信書や書籍を取りだして、私に見せて、これはすなわち、配達の道がないから送り返すはずであると言うから、その郵便物を見ると、東京の人に宛てたものもあれば、某役所に宛てたものもあり、中には横浜在住の人に宛てたものもある。又は鹿児島その他の地方に送るべきものもあった。

 

○返戻信書は宛先不明で届けられなかった信書をいうのだと思います。居留地にある外国郵便局は居留地内に住む住人が郵便局に取りに来れば信書を渡すが、取りに来ないものは返戻信書として本国へ送り帰し処理すると言うことです。

 

○前島が見たように居留地以外の郵便物はそのまま放棄されています。この当時は外交官が直接信書を運ぶ外交クーリエや居留地在住者を経由して信書を受け取る以外に方法がなかったことが分かります。

 

●文明国の人民は万里懸け隔てた異域にいても、やはり隣同様に通信自在の便利を得ているのに、我が国の人は横浜のものが、自分に宛てた信書が万里波頭を越えて、直ぐ目の前の郵便局まで来ているのですが、これを受け取ることができないとは、何たる不幸のことであるか慨歎にたえない。

 

●東京に居る外国人は、外国郵便船の着するごとに、横浜に行って通信物を受授して居るのである。しかし、外国郵便局が配達できないというのを責める道理はないけれど、こちらで進んでその道を開くことをしないで、今までボンヤリしていたのは、いかにも残念な次第である。既往はしかたないが、将来は是非ともなんとかしなければならない。そこで、この道を開くべき責任者は誰であるかと言うと、私自身をおいて外にないと思えば、一人慨歎にたえなかった。

 

○外国の郵便局の権能は居留地の中に限られるのだから、居留地以外には届けることができないと言われればそれを認めるほかはない。

ここで、前島は目の前にある不達の通信を助ける方法はないかと考えます。

 

●さればとて、我が国には、まだ外国政府と郵便物交換条約を締結すべき準備どころか、一の材料もないので、そこで私は、にわかに一つの案を工夫して開港場の外国郵便局に設けてある、一つの私書箱を我が駅逓寮で借り受けて、日本人に宛てた郵便物の配達できない物は悉く皆、私書箱に入れさせて、ひとまずこれを駅逓寮へ取って、さらに本寮から本人に配達することに定めたのです。

 

●このことについては、彼ら郵便局長は、日本政府がその国民の利益のために、この方法を設けられるには感服するところであるけれども、日本政府といえども、その委託されていない信書に手を触れる権利はなかろうし、我が郵便局もまた、委託されもまた、委託されていない者の私書箱の中に、通信物を投入する権利はないと言って、いずれも異口同音に拒絶した。

 

○受取人の委任状がなければ日本政府といえども郵便物を渡すことはできないと法的に不能であると、はねつけられてしまいました。

 

●私は法理論で彼らを説服することはとてもむずかしいと思ったから、その論鋒には少しも抵抗しないで、ただ通信事務の要はいかなる手段を以てするも、努めて不達のないようにするのが、肝要であるという実際論を以て、すなわち帝国の駅逓寮頭たる私は、この事に向かっては十分信用のあるべき者であるという事を説いて、なお数年の内に相互政府の郵便交換条約を締結することになるから、それまでの間は仮にその局と日本駅逓寮の間に交換条約を結んだ者とみなして、この方法を施そうという事を熟議したので、ようやく彼らは承諾した。

 

○駅逓寮の頭(かみ)の前島が保証するので了承して欲しいと訴えます。それにもうじきには郵便物交換条約の締結も近いだろうからそれまでの過渡期的な措置であると合意を得ます。しかし、これだけではこの話しは終わりません。

 

●しかしながら、彼ら本国駅逓院の承諾を得なければならんので、もし本国で異議があったときは何時たりとも、この口約束を取り消すということに協定したのですが、この協議をするときに、甚だ片腹痛く思ったのは、彼らは私が数年ならずして郵便交換条約を締結するというのを冷笑して、こんな未開国人のくせに、大胆すぎることを言うなと嘲るような語気で、そんな問題はいつの世のことだかまだ分からない。

 

●今の様子では、たとえ幾年経たところで、貴国は望んでも我が国では応じなかろう。この交換条約という者は、文明国同士が互いに同基の権利でもって結ぶべき者であるからと言うので、私は日本帝国がこの権利を主張するのは、何も難しいことではない。今から数年の後には、この帝国内に外国政府の郵便局を置くべきところもなくなり、また、総て日本から発する郵便物は帝国の国境を出る間では決して外国郵便官吏の手に触れることはないようになる。それは今から予言しておく。と言って笑ってしまった。それは、いずれも各国の本院から承認を得たと見えて外国郵便局の閉鎖するまでは、この方法でやっていたです。

 

○前にも書きましたとおり、明治四年頃の日本の立場は欧米列強から見れば、未開人の集まりで対等に議論する立場ではありませんでした。前島の構想は夢物語のようにとらえられ、欧米人の冷笑を浴びてしまいます。

 

○明治七年アメリカ合衆国と郵便交換条約を締結。同年横浜郵便局内で外国郵便開始。明治十年万国連合郵便条約に加盟。前島の予言は当たり、日本の郵便は列強に認められました。利害の大きい治外法権や関税自主権など列強に関わるものについては、この後三十年以上をへて不平等を解消しています。

○前島密は越後高田の庄屋の子です。幕府の下級役人の養子となり、江戸へ出て洋学を学び旗本格に取り上げられます。前島も幕末に幕府を支えた一人です。

 

○前島は大久保利通の知遇を得て大蔵省に入ります。前島は大蔵少輔(次官)が本官で駅逓局長を兼務していました。午前は大蔵、午後は駅逓寮に勤務していました。前島が横浜の居留地に視察に行かなければ未達の信書の問題が誰にも分からず何年も過ぎたことでしょう。

私は、未達の信書の問題をここで知って驚きました。外国からの便りが何年たっても返事がなかったとは、よく聞くことですが未達のまま本国へ戻されて、焼却処分でもされていたんだと思うようになりました。

 

○上の写真は明治初年に発行された切手です。切手という言葉は、その頃の庶民に親しまれた言葉でした。酒屋や乾物屋で商品券として出されたものを切手と呼びました。「これは つまらないものですが 五升の切手でございます。」「おう、これはありがてい。当分酒の心配はいらねえ。」などと 落語 「文七元結」にでてきます。切手と名付けたのは前島密だそうです。

 

○前島も身分制度を乗り越えて、明治の新しい世の中の先駆けになった一人です。