○数年前に手に入れた豆本7×8センチメートルくらいの本があります。

○1963年に新潟市天神尾404の越後豆本の会から出されたものです。100部限定ですから、現存はかなり少ないのではないでしょうか。

●新潟の之坂覚え書き

①念仏寺の坂 関屋本村

②水道町の坂=交番の坂 水道町

③放送局の坂(旧放送局坂) 旭町通り

④医大の坂(現大学附属病院) 旭町通り

⑤検事正の坂 旭町通り

⑥新津さんの坂(新津邸前) 旭町通り

⑦招魂社のだんだん(現大学本部脇) 旭町通り

⑧営所通りの坂=赤十字の坂 旭町通り

⑨協会グランドの坂=猫山の坂(現寄居中学校のグランド) 西大畑町

⑩カトリックの坂=異人池の坂 東大畑町

⑪神宮様の坂 南浜通り

⑫大畑町の坂 西大畑町

⑬二葉校の坂 二葉町

⑭往生院の坂=やこうじ坂 古町通り十

⑮日和山の坂(旧日和山)東堀通り十三番地

⑯烏帽子町の坂 烏帽子町

⑰窪田町の坂 窪田町 

『1963年現在の地名です。現在は総て新潟市中央区にあります。』

 

⑮日和山の坂(旧日和山)東堀通り十三番地


○「水戸教」江戸時代から代々新潟港の水先案内をした伊藤仁太郎の役所のあったところです。

○明治20年代の鶴岡からの船が遭難した慰霊碑です。

○これも明治30年代の慰霊碑です。

山上の社。住吉神社です。航海の安全を守る神です。

○明治17年艀(はしけ)方の奉納した手水鉢。

○明治24年と読める12方位を記した礎石

○この丘の上に櫓を組んで沖合の船に旗旒信号で水位や流れを知らせていたようです。

「思い出の新潟百景 高橋五仙子画 昭和48年新潟日報事業社 刊」

 

○当時の信濃川は大河で流水量が大きく、砂がはこばれて季節によっては浅くなることが多かったそうです。

 

●昭和8年刊 「新潟古老雑話」所収 和船の装い 附船町 山根熊吉翁 69才

 昔のジョンカラ節

一つ日和山一花咲かせ

二つ俄(にわか)にちょうろをおろし

三つ港に入船なさる

四つ四つ足の錨をおろし

五ついつまでも船とめおいて

六つ睦まじくかた船呼んで

七つなじみの子供衆もろて

八つやたらに太鼓や三味で

九つ小宿の其のにぎやかさ

十に問屋衆は御繁昌に暮らす

 

「新潟女郎衆は錨の性よ 今朝も出船を二艘とめた」

 

○江戸の昔から歌い継がれた舟歌の一つと思われます。「六つ睦まじくかた船呼んで」入港の事務が終われば古町へ行く小舟を呼ぶという意味だと思います。港は堀で四方八方につながっている八千八川の新潟です。船でなじみの店へ行きました。

 

○「七つなじみの子供衆もろて」これは、禿のような若い女の子を呼ぶということでしょう。そうしてみんなで宴会を開いて航海の無事を感謝するのでしょう。

 

○「十に問屋衆は御繁昌に暮らす」船頭衆の働きによって、上大川前に並んでいた廻船問屋の旦那衆は御繁昌する。と自慢げに歌っています。

 

○新潟の繫栄の様子がよく分かります。こうした情景は、明治30年代になり和船から洋船に切り替わるまで続きました。