○津田仙1837-1908 旧佐倉藩士 蘭学・英学を学びのちに幕府外国奉行の通訳となり、福沢諭吉とともに使節団に随行しアメリカへ渡りました。明治維新後は農業指導に専念し、我が国の農業界に力を尽くしました。

 

●明治三十六年の春、津田仙翁は私ども(山室軍平)の招待に応じて、救世軍の会に出て自己の経歴を述べられた。

 

自分は藩士として剣術を学んで、武者修行に出た。槍術・馬術・水泳術・砲術をも修めた。ペルリの来たときには、大砲を率いて出陣した。

 

ついで、蘭学者になり、英学者になり、旧幕府に対して外務の官につき、新潟が開港したときには、その役人となった。維新の際には、幕府方の軍人となって、官軍と戦って大敗北をした。浪人して翻訳をし、通弁となり、農業を営んで西洋野菜を栽培し、工業方面では印刷局のインキ伝習人となった。

 

一八七三年には米国コロンブス大博覧会の審査官となた。ついで興農社を建てて、その社長兼教師となり、新聞記者となり、著述家となり、禁酒会の遊説者となり、植木屋となり、種物輸出商となり、本屋となり、今は病気して、鎌倉に隠居している。かように私は、大抵の仕事をしてきたがまだ乞食と華族とにはならないのが幸いだ。翁はかようにいわれた。

 

そうして翁は明治年間の大平民であったといっていい。そうして翁は平民の友たる救世軍の事業に同情し、大いなる敬意を払われ、もっとも真実なる救世軍の軍友として終始せられた。

 

●山室軍平「偉大なる平民津田仙」

 

○山室軍平は日本救世軍の指導者、キリスト教に立った社会福祉運動に努めました。

 

○津田仙は新潟港の外国への開港に伴い、運上所(税関)の通訳として慶応四年頃新潟奉行所に在籍していました。新潟では有志に英語を教授していましたが、ほどなく大政奉還となり、幕府の新潟港支配が終わり、江戸へ引き揚げます。

 

○新潟港の支配はこの後米沢藩が臨時的に管理します。謙信公以来の縁で越後の民に信頼されていたということです。この後新潟港は奥羽列藩同盟の支配下に置かれ、スネルというオランダ人が会津藩の代理人になって武器の売買に活躍します。

 

○津田仙は農業の普及に力を入れて、トウモロコシやイチゴなどの普及に努めました。当時は江戸から武士が国元に帰ったので空き地がたくさんでき、津田は麻布辺に農場と農学校を作ったのですから、隔世の感があります。

○ご存じ津田梅子は、津田仙の次女です。六才でアメリカへ女子留学生として渡りました。六才で別れるのですから、津田仙の決意は想像を絶するものがあります。

 

○津田は多くの幕臣の様に在野の人として活躍しました。農業に関心を持ったのも国民の大多数の農民の生活を思ってのことでしょう。津田は無位無冠の人としてさまざまなことをしながら生きて、立場の弱い人達のことを助けようとしたのでしょう。