●田中正造 1841-1913 義人 下野の人、足尾銅山の鉱毒問題を解決しようとして衆議院議員になり、その被害の惨状を訴えました。そして、政府に対策を提議したけれども、退けられついには、天皇に直訴しました。明治の佐倉惣五郎と讃えられました。

●正造は改進党の領袖沼間守一の薫陶を受け、その誘掖を蒙ったので、上京するごとに沼間氏の邸でわらじを脱ぐことに決めていた。しかし、辺幅を飾らない翁のことで、夏などは古浴衣を着たまま出てきて、沼間氏邸ではまず、台所へまわって女中から盥を借りて、自分から水をくんで、浴衣から始めて、身につけているもの一切の洗濯をして物干し竿に掛けておき、さて主人の着物を借りて着て、面会を求める。そうして主人と話している間に、洗濯物は皆乾くという寸法であった。「この伝を、拙者はどこへ行ってもやります。」と翁は自慢話の一つにした。

 

貧乏な翁は、友人から金を借りるのが毎度のことで、皆それを借り倒しにしてしまう。しかし、平素気に食わぬ男からは一文半銭借りようとしなかった。その理由を問われて、「金を借りると、殴る時に腕が鈍るからな。」と借りようとしない男の面前で、わざと聞こえよがしにいったりした。

 

●堀紫山 「田中正造翁」文芸倶楽部 明治畸人伝 所収

 

○田中正造を取り上げるのは2回目です。前回は野依秀一の訪問記で田中の飾らない語り口を紹介しました。今回は田中の行動や生き方に関わる一文です。

 

○沼間守一は、旧幕臣反藩閥の立場を取った自由民権運動家です。

 

○田中は鉱毒問題を解決するために議員になったので、利権を握って金儲けしようという議員とは真反対の人です。

 

○気に入らない人から金を借りないというのは、田中が金銭による買収には決して応じなかった証拠になります。そんな申し出にはきっと、拳骨でぶん殴ったことと思います。

 

○田中は汚いなりで、支持者を巡って活動を続けました。資産のほとんどを活動に使い、死んだ時にも支持者の自宅であったそうです。