○来島恒喜1858-1889 福岡の人 玄洋社社員 明治22年外務大臣大隈常信の暗殺を謀り、爆弾を投じ、その直後自殺をしました。

●刺客来島恒喜が、外務省の門前において時の外務大臣大隈常信に爆弾を投じ、大隈の条約改正を阻止しようとしたことは、今なお国民の耳目に新たなるところであるが、忠誠・硬直・一世に信頼せられたる子爵谷干城はこの日の日記に次のように記している。

 

「宗祖在天の霊、蓋し手を来島に借るるものなるべし、輿論は即ち意なり。天意豈恐れざるべけんや、天日いまだ落ちず、なお幾多の来島を生ずべし」

 

(大意 御歴代の天皇を始め、在天の祖先の霊は、来島の手を借りて行動させたものと言わざるを得ない。天下の公論はそれを意味するものである。どうして天意を恐れないと言うことができようか、天の日はまだ落ちてはいない。このようなことを繰り返せば、これからたくさんの来島のような義士が生まれてくるだろう。)

 

●今村力三郎著 「法廷五十年」

 

○谷干城は土佐藩出身の大臣経験者です。谷はじめ保守的な政治家、言論人は来島の行動を支持しました。原因は大隈常信外務大臣が進めた外国人裁判官の登用にあります。外国人の裁判官を採用すれば、外国から公正な裁判を日本政府が進めていると欧米に認めてもらえるという意図がありました。

 

○現在では外国籍の裁判官はいませんし、国会議員ですら、日本国籍を有するものに限られています。どうして大隈はこのような政策を取ったのでしょう。

○幕末に結んだ不平等条約の中に「外国人の領事裁判権」があります。尊皇攘夷で異人が切られる幕府では公正な裁判はできないと断じられて、日本国内で犯罪を犯したイギリス人の裁判は、イギリスの領事館でイギリス人の法官によってなされることを力で認めさせられました。

 

○明治初年の回想でこんなことがあります。浦和辺で犯罪を犯したイギリス人を警察署では拘禁できずに、警察署の部屋に入れて見張りをつけました。裁判は横浜のイギリス領事館まで行かなければなりません。犯人の男を人力車に乗せて警察官が付き添います。横浜の町に入ると男は車から飛び降り、人混みの中へ消えていきました。男は浦和から横浜まで警察の金でただで旅行したことになります。当時の警察官の悔しさが伝わってきます。

 

○もう一つこの頃に横浜発の旅客船「ノルマントン号」が和歌山沖で沈没した事件があります。ノルマントンの船長は救命ボートを下ろし、欧米人の乗客と船員のみを助け、他の日本人やアジア人を見捨てて溺死者が多数でました。

 

○領事裁判にかけられましたが、船長は「英語で呼びかけたが言葉が分からず助けられなかった。」と主張し「無罪」の判決が出ました。その後日本国内での反対の声が高まり、「いくら言葉が分からずとも、身振り手振りで助けることができただろう。」「日本人やアジア人は初めから助ける気はなかったのだ。」という意見が新聞で主張されました。裁判はこのために、やり直され船長や船員には禁固刑が下されました。禁固刑と言っても領事館内の拘置所か本国に送還されて服役しましたので、厳正に履行されたか分かりません。日本国民にとっては自主裁判権を取り戻すことが大きな願いとなっていました。

 

○大隈は、外国人の裁判官採用で、欧米諸国に公正な裁判の実施が可能なのだと印象づけたかったのです。谷のような反対派にとっては、この裁判官は本当に公正なのかという疑問を持ち、自分の国籍に有利な判決を出したらどうするのかと反対しました。

 

○結局来島の行動が、この問題に焦点を合わせたことになり、外国人の裁判官採用問題は立ち消えになります。井上馨が進めた鹿鳴館の夜会舞踏会のように、この当時は何としても不平等条約を解消するための試行錯誤が続きました。伊藤博文は鹿鳴館当時を回想して、国のためと思い自分も婦人連中も舞踏を習い、あえて異人の相手をしたのだ、当時は悲壮な覚悟を以て取り組んだのだと話しています。日本人の滑稽なまでの誠意は西洋列強には伝わりません。漫画家ビゴーは猿が舞踏をしている図を描いて日本人を笑いました。

 

○イギリスの領事裁判権の解消は1894年アメリカは1899年だそうです。相手に分かってもらおうという交渉は列強にはなんの効果もなく、日本が富国強兵化して日清戦争に勝ち、アジアの対抗勢力となって初めて、自己の利益とつなげて、列強は不平等の解消に応じました。関税自主権の回復は日露戦争後になります。

 

○日本の富国強兵が遅れれば列強はいつまでも放置したでしょう。旭日旗を戦犯旗と呼んでいまだに非難する国があります。お気の毒なことだとお気持ちは理解することができますが、弱肉強食、適者生存の中で政治を進めた当時の日本にとっては、この道を行くしかなかったのだと思っています。