○私が明治の記録や歴史に関心を持ったのは一冊の本がきっかけです。30年くらい前200円ぐらいで古書店で買った、森銑三の「明治人物夜話」です。森は江戸文学の専門家で実証的に史料を検討して独学で研究しました。傍ら明治の新聞・雑誌をていねいに読み込み抜き書きを集め、随筆を残しています。

 

○一人の人物を探ると次々と人がつながるという面白さを森の著書から学びました。例えば、西郷隆盛→西南戦争→宮崎八郎→宮崎滔天→頭山満→大井憲太郎→三浦観樹→杉浦重剛→昭和天皇→良子皇后→久邇宮→薩摩藩→西郷隆盛 といったように人物がエピソードと共につながっていきます。

 

○森銑三は工作社の山本夏彦と交流があり、山本は森から激励や批評を受けていました。山本は自社の雑誌を毎号贈呈していました。山本の随筆はいくつも文庫本になっています。山本夏彦の愛読者は多く、ビートたけしもその一人です。

○私は明治雑文蒐集の大人の一人に森銑三を選びます。1895年-1985年

 

○宮武外骨1867年-1955年

 

○宮武外骨の名を初めて聞いたのは大学の時の講義で「そういえば、宮武外骨という面白い人がいました。」と明治生まれの先生が話されました。それから後、就職して地元の古書店に行った時に、この古書店主は高校の同級生で「あんたの好きそうな本がある」と出してきたのが河出書房の「宮武外骨著作集」の4冊でした。その時になって初めて宮武の著書を見ました。明治の当時としては小さな話題が系統づけて集められていました。8冊揃いなので集めようとして、10年以上かかってしまいました。最後の1冊は早稻田の古本屋街の五十嵐書店で見つけ、とても高かったのですが、店主から「見つけた時に買った方がいいですよ。」とおだてられて買いました。その後オリジナルの原本を集めるようになりました。

 

○宮武は明治憲法発布の式典を風刺して、骸骨の議会の絵にして出版し、不敬罪で逮捕されて入獄しました。しかし、宮武の出すさまざまな雑誌は、学者や文化人の支持を得て長く続きました。

 

○宮武はこのような記事を書くために、古い雑誌や新聞を集めました。その集めた資料をリュックに入れて東京帝国大学の図書館へ運びました。教授の理解を得て膨大な資料となりました。戦災にも焼けずに残ったのは幸いです。これが、今日の東京大学明治新聞雑誌文庫の元となりました。

 

○私は明治雑文蒐集の大人の一人に宮武外骨を選びます。

 

○石井研堂1865年-1943年

 

○石井研堂との出会いは、やはり地元のなじみの古書店「明治事物起源」という本です。

 

○1500ページもある重い本です。明治40年に初版が出され、大正・昭和と何度か改訂されています。これは改訂増補された、昭和59年のものです。石井は明治の記憶が遠くなって消えてしまう前に本として残すことを考えました。明治文化研究会の同人としても活動しました。

 

○ひとつ例を引いてみます。

 

●オヤマカチャンリン

明治十年十二月二十一日の読売新聞に、近頃楊弓店、室内射的場、湯屋の二階茶店などで、白首の姉さんが、希代奇的列一種不思議な通語に「オヤマカチャンリン」という語を使う云々という記事あり。

 

○これらの店は表向きの店名で白首(遊女)が売春をしていました。

 

○オヤマカチャンリンは先代の春風亭柳橋が「時そば」の枕でよく使いました。「昔はこの~ オヤマカチャンリンそば屋の風鈴なんてぃことをもうしましたんでな。」とのんびり語りました。明治の言葉だったのでしょう。また、別の本では日露戦争の満州軍総司令官の大山巌の部下の回想談に「大山さんはいつも冗談ばかり言って部下をからかっていました。大山がチャリを入れる。オヤマカチャンリン」とあります。しかし石井の明治事物起源によって明治10年には都内の淫売窟で使われていたことがわかります。

 

○石井はまた、少年雑誌の編集にも長く携わり、「少国民」を発刊しました。この雑誌は柳田国男や谷崎潤一郎など大正昭和に活躍した人達の懐かしい愛読書でした。当時の少年は漢詩を作るなどは当たり前で、今のレベルにすると高校生でも難しい所のある雑誌です。

 

○以上この三人を明治雑文の蒐集三大人と私が決めました。次回から森銑三の集めた雑文の中からおもしろいものを紹介していきます。