○私は一つのことを好きになると、その歴史的な背景を調べてしまう癖がついてしまいました。野球のことは中学生の頃時事通信社の「野球百年」を読み頭に入れました。プロ野球の歴史は週間ベースボールを時々買って、大和球志、大井広介、鈴木惣太郎などの書き物からリーグ草創期と分裂期の様子を知りました。

○つい最近のことですがロビンスなどを創設した田村駒治郎の会社が大阪市に「タムラコマ」として残っているのを知って少し感動しました。駒治郎は当時から「タムラコマ」と呼ばれていたのです。

○嘉義農林学校の甲子園準優勝を描いた映画「KANO」の展示です。嘉義農林のことは前から知っていました。タイガースにいた呉昌征選手が嘉義農林のメンバーで甲子園に出ていたからです。台湾の嘉義市の今は大学になって敷地には、嘉義農林の奮闘の記念碑もあり、台湾の人達が日本との関わりを忘れないでいてくださることに感謝しています。この映画もまだ見ていません。いつか台湾へも行きたいと考えています。

○阪神時代の呉昌征選手。呉さんは戦前は巨人に在籍していました。昭和50年頃には、阪神巨人のOB戦に出て、巨人の青田に呉ちゃんはこっちへこいと、からかわれていたのを新聞で読んだことがあります。

 

○以下タイガースの昭和25年頃の名選手をブロマイドで紹介します。これに似たものは、私が小学校の低学年のころには、駄菓子屋(新潟市では「なんか屋」)で新聞紙の封筒が何枚も重ねてぶら下がっていて、5円出して1回引くことができました。1等が出れば大きな写真がもらえました。いまのガチャみたいたものです。これらは後年、大人になってから集めたものです。

○藤村富美男選手。いかにも精悍、物干し竿のバットで好打炸裂。ミスタータイガース。ダイナマイト打線と呼ばれました。本当にベンチで新聞紙に火をつけて、爆発だーと叫んだのですからすごい人です。戦後の混乱期にファンを喜ばせることを第一に考えていた偉い人です。藤村さんも球団の派閥争いの犠牲になって選手生活の晩年はお気の毒でした。必殺仕事人に出ていました。

○別当薫選手、藤村とともにダイナマイト打線の中軸を打ちました。藤村が呉港中学出身に対して別当は慶応大学とお互いライバル心を持っていたということです。別当は二リーグ分裂時に大毎オリオンズへいってしまいました。ここでも、内紛があったようです。

○私には大洋ホエールズの監督でおなじみ。「保谷バリラックス」のCMにでていました。

○阪神タイガースは昭和34年頃までは、この写真のように大阪タイガースと名乗っていました。いっそもう一度「大阪タイガース」と名乗って、ユニフォームの胸にOSAKAとつけて欲しいのです。いまさら阪神にこだわって電車の名前はいけません。フランチャイズを明示して、大阪のチームと名乗ってください。タイガースは阪神電車がやっていることは誰でも知っています。

 

○巨人が胸にGIANTSとYOMIURIとつけて、TOKYOと都市名をつけないのはいかにも田舎くさく、金儲けのためとしか見えません。タイガースはいつまで、巨人の後を追うようなことをしているのだろうと思います。時代はもうとっくに変わっているのです。しかし、この頃はチーム内のごたごたは、阪神ではなくて巨人の十八番になったのはうれしいことです。

 

○次回も大阪旅行、万博記念公園です。