○山本夏彦のコラムに鏑木清方翁が「この頃のさんまはちっともうまくない。昔のさんまはもっとうまかった。」と語った一文があったように思います。清方は日本画家明治10年頃の生まれ。こう語ったのは昭和40年頃と思います。これを受けて夏彦は、新聞に載った清方翁の言葉に読者からは昔を懐かしんでいるんだとか、味覚がおかしいのではないかといった批判が寄せられた。夏彦は続けてこれは間違っている。我々が食べているさんまのほとんどは冷凍さんまである。客は安いさんまを買うが高いと他の魚屋にいってしまう。だから魚屋は生きのいい採れたてのさんまは高いので店頭には出さず、分かる客だけによいさんまを売っているのだ。いつのまにか私たちは本当のさんまのおいしさを忘れてしまったのだと断じています。

私が昔子供の頃に食べた瓜はさっぱりしておいしかったんだよ。といっても甘ったるいメロンしか食べたことのないものにいっても分からないのと同じです。

 

夏彦のコラムの中に小島政二郎の「食ひしん坊」という食物のエッセイ本が出てきました。探して読むと明治大正の食べ物が出てきたりしておもしろい本です。小島のエッセイは大阪で出された「あまから」というグルメ雑誌に連載されたものと分かりました。前に紹介した「心」と同年代の執筆者の面白い本です。現在は廃刊されています。

 

手元に何冊かあるのでその中からいくつか紹介していきます。

 

○英 十三 は邦楽評論家 明治の生まれ。詳細不明 江戸期の通人の秋刀魚の食べ方について語ります。

 

●今から五十年前のことだが(大正初年)話をしてくれたのはすでに七十を越えた江戸生まれの老人であった。その叔父に当たる人が幕末頃に柳営に呉服を納める株を持っていた人だという。そのころ、そうした株を持っているとなると何の心配もなく懐手して遊んでいて楽に金がもうかるのだそうで、したがってこの叔父さんは、若い頃から道楽の限りを尽くして、たいした生活をしていたのだそうだ。

 

ところが、明治維新になって幕府が根こそぎ瓦解したとなると、その叔父さんも全く仕事がなくなってしまったが、それでもなんとかやりくりをしていたらしいが、西南戦争の後、平生まったく無沙汰していた叔父が、どうした風の吹き回しか、この話をした甥の家に訪ねてきて、いろいろ話をした上、一度自分の家に訪ねて貰いたい。昼飯でも食べようやと誘われたので、せっかく呼んでくれたのに行かないのも悪いと思って日を約して叔父の家を訪れたのだそうだ。

 

この話をしてくれた老人は、その頃神田の御成道に住んでいたが、そこから本所の叔父の家までかなりの道程を訪ねていった。

 

盛んな頃には、隅田川のほとりの汐入の泉水のあるような庭で、豪奢な暮らしをしていた叔父さんもその時分には本所と言っても、裏町の二軒長屋の、三間ばかりの家に細君と一緒に住まっていたそうだが。その細君というのが、元が芸者で、年は取ってもなかなか粋な人だったという。

 

いろいろ話をしている内に、妻勲は台所で飯の支度をしていたらしいが、そのうちに、プーンと秋刀魚を焼く匂いがしてきたそうだ。

 

そこで自分はまだ若い頃であったが、なんだごちそうするといっていたが、叔父さんも態々人を呼び寄せて秋刀魚でご飯を食べさせるようになったのか、うら悲しいような気がしてきたという。

 

やがて善を二つ運んできたが、善の上には先刻から匂いのしていた大振りの秋刀魚が皿にのっている。大夫時が遅れたし自分も腹が空いていたので、善の箸を取り上げて、では叔父さん遠慮なく頂戴しますと、その肴をむしろうとすると、叔父さんは慌てて止めて、まあお待ち。秋刀魚はそんなとこから食べるものじゃないといいながら、自分の善にあった象牙の柄に銀の袴を取り付けてある箸を取って、その秋刀魚の腹を突くと、つるつると腸の苦みのあるところが出てくる。叔父さんは器用にその腸をはさんで二口ばかり食べる。

 

自分も仕方なしにその真似をして食べるとなるほどうまい。そうそう左様して食うものだ。さア死骸は片付けてお代わりだというと、隣の障子をあけて妻君が代わりの秋刀魚をいつのまにか焼いたか皿の上にのせて、前の秋刀魚はそのまま台所へ運んでしまうのだ。

 

こんなことが幾度か繰り返されているうちに、いつか腹ができてきて、終わりに、くさやの乾物かなにかで、茶漬けを食べさせられた頃には、すっかり満腹してしまったというのだ。

 

あとで障子を開けてみると食べた叔父さんの所謂秋刀魚の死骸が、幾皿となく積まれてあって、しかも大きな盤台の上には、未だ生きの良さそうな秋刀魚がたくさん残っていたのには驚いたという。

 

○この文を読んだ時に、江戸時代の通人の一端を具体的に知ることができた喜びがあります。江戸時代を回想した聞き書きに八百善のことが出ていて、鯛の刺身だって目の下何尺の相模湾のものしか使わない。かまぼこだってよりによった魚から白身を取る。春の菜だって炭火をたいて寒い内から育てて一番のものしか使わない。などと出ていたようです。したがって、かまぼこ二切れで二分銀くらい一人前そろえると何両したか判らないほどでした。秋刀魚も腸と脂ののった腹身だけちょっと食べるぜいたくですね。この話を読むと、落語で殿様が塩焼きの鯛を二口召し上がって「三太夫。代わりを持て。」というのも本当のことに聞こえてきます。

 

○柳営は江戸幕府の別称です。ここでは、お城に出入りの呉服屋という意味です。お出入りの呉服屋となれば、大名家や金持ちが争って買い求めるので、金は黙っていても入ります。明治になると新政府は財政難を理由に、慶応三年以前の貸し借りをすべて無効にしてしまいます。つまり、大名や旗本に貸し付けていた債権はゼロになる徳政令を出しました。

 

○この叔父さんばかりでなく江戸や大坂の大商人は零落し、番頭などにだまされて路頭に迷った人が多く出ました。徳政令を事前に知ることが出来た、相当の高位高官は密かに情報を漏らし、富豪を助けました。井上馨もその一人で金銭に貪欲なさまは、「三井の番頭」と蔑称されました。