○山本夏彦のコラムに鏑木清方翁が「この頃のさんまはちっともうまくない。昔のさんまはもっとうまかった。」と語った一文があったように思います。清方は日本画家明治10年頃の生まれ。こう語ったのは昭和40年頃と思います。これを受けて夏彦は、新聞に載った清方翁の言葉に読者からは昔を懐かしんでいるんだとか、味覚がおかしいのではないかといった批判が寄せられた。夏彦は続けてこれは間違っている。我々が食べているさんまのほとんどは冷凍さんまである。客は安いさんまを買うが高いと他の魚屋にいってしまう。だから魚屋は生きのいい採れたてのさんまは高いので店頭には出さず、分かる客だけによいさんまを売っているのだ。いつのまにか私たちは本当のさんまのおいしさを忘れてしまったのだと断じています。

私が昔子供の頃に食べた瓜はさっぱりしておいしかったんだよ。といっても甘ったるいメロンしか食べたことのないものにいっても分からないのと同じです。

 

夏彦のコラムの中に小島政二郎の「食ひしん坊」という食物のエッセイ本が出てきました。探して読むと明治大正の食べ物が出てきたりしておもしろい本です。小島のエッセイは大阪で出された「あまから」というグルメ雑誌に連載されたものと分かりました。前に紹介した「心」と同年代の執筆者の面白い本です。現在は廃刊されています。

 

手元に何冊かあるのでその中からいくつか紹介していきます。

 

○作者の鈴木五郎は一灯園の同人。どのような方か分かりません。鈴木藤三郞は台湾製糖の創立者です。少し長いのですが引用します。

 

●彼が日露戦争の最中に静岡県の連隊を慰問に行ったことがあった。隊内を回って慰問と激励の言葉を述べながら炊事場を通りかかったのが、丁度昼食前であった。見ると、飯を移し終わった大釜のそばに真っ黒なおこげが山のように積み上げられてある。驚いて炊事係の兵に「いつも、こんなにおこげが出るのですか。」と藤三郞が聞くと「はっ、いつも二割はこげるのであります。」

 

連隊長閣下がご自身で案内されていられる国会からの慰問使に直接質問された光栄に震えながら炊事班長の軍曹は直立不動の姿勢で、こう答えた。「ほう、二割も」藤三郞は目を丸くして嘆息するようにこういった。

 

「はい、こうした大釜では、底がこげつくぐらいに炊かないと、中まで火が通らないのであります。」と長年の経験で二割のおこげを出すところに名炊事班長の資格があるのだという確信を持っている軍曹は、この晴れの舞台で自分のベテランぶりを発表できる得意さに顔を輝かせながら、こう答えた。

 

「ふぅ。 」藤三郞はうなるようにそう言ったまま考え込んでしまった。「陸軍がこうなら、海軍でも同じだろう。そうすれば、民間の紡績会社や学校の寄宿舎でも似たようなものだろう。これらの人々の総数は、数百万に上るだろう。その数百万が三度三度食べるご飯が二割ずつ焦げて無駄になるとしたら国家として巨大な損失といわなければならない。まして、戦争中の主食のことだから一日も放っておけない大問題である。これは、どうしても解決しなければならない。」

 

藤三郞の頭の中は、こうした考えていっぱいになってしまた。それから後は、連隊長閣下の儀礼的な話しかけに対しても、上の空の返事しかできなかった。帰宅するとすぐ普通の大釜で飯炊きの実験をしてみた。すると、どんなに火のたき方を工夫しても、途中で中をかき回してみても、あの軍曹のいったとおり、多少釜底が焦げつくくらいにしないと中まで火が通らないことが分かった。

 

そこで、直火ではだめだとさんざん苦心をしたあげく考えついたのが、蒸気でたく方法である。鋳物か錬鉄で底が二重になっている大釜を作った。そして、蒸気を下の釜の底の穴から上の釜の底の中心へ吹き付ける一方、上下の釜の間に充満した蒸気がその側面まで平均して行き渡るように工夫してついに、米四斗までは完全に炊ける蒸気二重釜の発明を完成した。

 

この発明は、即座に軍隊と軍艦に採用された。また、民間はあらゆる寄宿舎、ホテル、大食堂のほかにも各種工業に広く用いられて、半世紀後の今日まで、二割のおこげを出すことを防ぎ、また、今後も日本人が米食を続ける限りは、それを防ぎ続けるだろう。

 

○明治の日本人は国家意識が強く、鈴木藤三郞のように、無駄をなくして国に役立とうという気持ちを持っていました。佐田介石という人は明治初年に「ランプ亡国論」を主張しました。佐田は菜種油を廃して国民が石油ランプを使い始めたことを例にして、「ランプも灯油も西洋からの輸入品である。こうして、居る間も日本の金銀が西洋に流れていく。」と批判して、安易に西洋物品を買うことを批判しました。

 

○明治中期までの日本は、まだ軽工業しかなく、製茶、絹糸、マッチ、伝統工芸品くらいしか輸出品がなく外国からの輸入超過でした。ですから、鈴木藤三郞のような先覚者がたくさんいました。なんとかして国産で作ることができれば、外国へ日本の金が流れずにすむと考えたのです。金儲けだけで始めたわけではないので失敗して零落したひともいました。

 

○この随筆を読んで驚いたのは、子供の頃に家で炊いていたお釜はおこげが出たのですが少しでしたので、大釜でご飯を炊くと二割も食べられないものができることです。今では知っている人はいないのではないかと思います。また、蒸気がまの開発が明治40年ころにはもう完成していたことです。

 

藤三郞の様なものの考え方は、実は現在にも生きていると思います。職人が他の人にはできないようなものを作って、自分の腕を磨いたり、機械製品をなんとか改良してよいものにしたいと工夫を続けて解決していくことです。これは日本人の特性だと思います。千年以上続いたこうしたあきらめないという思想はこれからも続いていくと確信しています。